坂口安吾について
坂口安吾
【さかぐち・あんご】
小説家。本名、坂口炳五(へいご)。明治39年10月20日~昭和30年2月17日。新潟県新潟市西大畑町に生まれる。大正15年、東洋大学印度哲学科に入学。昭和5年、同人雑誌に発表した「風博士」を牧野信一に絶賛され、文壇の注目を浴びる。その後、説話小説「紫大納言」(昭和14)、評論「日本文化私観」(昭和17)などの佳作を発表する一方、文壇的には不遇の時代が続いたが、昭和21年、戦後の本質を鋭く把握洞察した「堕落論」、「白痴」の発表により、一躍人気作家として表舞台に躍り出る。以後、「青鬼の褌を洗う女」(昭和22)や「安吾巷談」(昭和25)など、戦後世相を反映した小説やエッセイ、「不連続殺人事件」(昭和22)などの探偵小説、「安吾新日本地理」(昭和26)における独特の歴史研究など、多彩な執筆活動を展開した。昭和30年2月17日、脳溢血により急死。享年48歳。代表作は「紫大納言」、「白痴」、「堕落論」、「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」など。
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回想録――石川淳「安吾のゐる風景」(昭和31年6月)
安吾にしても、生きてゐたあひだには、病気になつてみせたことがあつた。そのことを、ひとがわたしに知らせに来た。そして、知らせといつしよに、一冊の小さい本がとどけられた。安吾の著書である。なにげなくひろげて見ると、そのトビラに、字……さあ、字といふか、絵といふか、ペンでかいたいくつかの直線と曲線とがそこに交錯してゐた。なにをあらはしたものか、すぐには判じかねた。しひてたとへれは、ピカビヤのかいた線画に似てゐる。ひとの説明に依つて、わたしはそれが九箇の漢字であり、そのうち七箇が安吾とわたしとの氏名をあらはしてゐることを知つた。すなはち、著者がわたしに贈つてくれた本にしるした字である。さうおもつて読めばさう読めないこともない。これは安吾がまへの日の朝に書いた字だといふ。そして、そのまたまへの日の夜には、安吾はいはれなくバットをふるつて近親のひとを打つたといふ。わたしは見るべからざるものを見たやうに、本のトビラを伏せた。じつは、いささか虚をつかれた。といふのは、わたしの知らないうちに、すでに安吾の生理はこのきびしいジグザグの線をもつて示されるやうな状態におちこんでしまつたものと、見てとれたからである。
回想録――江戸川乱歩「『不連続殺人事件』を評す」(昭和23年12月)
坂口安吾君の最初の探偵小説「不連続殺人事件」(「日本小説」連載)が完結したので、この力作長篇について感想を記す。純文学畑の作家の探偵小説として画期的の本格作品であるばかりでなく、私の見る所によれば、内外の探偵小説を引くるめて、殆んど前例のない新手法を取入れた最も注目すべき作品だからである。
回想録――大井広介「その頃の坂口」(昭和29年9月)
あまり文学書は読まなかつた人であるが、(史書や探偵小説ばかり読み)流石ドストイェフスキイだけは読み、人間に深淵のあること、殺すと愛すといふ極致の一致する場合、ジキールがハイドたりうることなどを、理解してゐて、君などアサハカなもんだと称してゐたが、彼こそ根つからの好人物で、悪といふものを理解するだけで、悪に無縁な、いはばおぎやと生れたまま、スクスク育つたやうな型破りの人物である。彼が悪を描けば滑稽になるいはれである。友情にもあつく、美談と失敗談しか、ない人物である。
回想録――大井広介「戦時中の坂口」(昭和30年4月)
坂口は昭和十四年、宇野千代の「文体」の常連で「紫大納言」その他をかいた。これらの諸篇はのちに「炉辺夜話集」に納められ、スタイル社から十六年上梓された。十五年暮、私たちのやっていた「現代文学」が同人制をとった時、坂口を迎えたのも、そうした近業への親近畏敬がしからしめた。
回想録――尾崎士郎「睡眠薬と覚醒剤」(昭和33年4月)
安吾の人気がジャーナリズムの上にぐいぐいのしあがってゆくのが眼に見えるようである。そのころ、今までの生活関係を中断されて、伊東の街はずれにある百姓家の隠居所にじっと身体をかがめるようにして暮していた私の耳にも、安吾の噂は風のように伝わってきた。戦後派の作家として、忽然と浮かびあがった安吾の存在は、彼と同じように長いあいだの労苦が報いて、やっと時流の上に、それぞれの立場を築きあげた太宰治や織田作之助と並んで、新興ジャーナリズムを圧倒していた。戦後派の三羽烏というような冷かし言葉がゴシップ用語として一般化されるようになったのもその頃であるが、安吾の存在が特に大きく聳え立って見えたのは、彼が小説のほかに、「堕落論」や「安吾巷談」なぞによって、彼独特の文明史観を発表していたからでもあった。一朝にして名を成したことにおいては三人とも共通していたが、仕事が急に忙しくなるにつれて、無鉄砲な徹夜生活に耐えるために、そのころ街の無頼漢や愚連隊が自分を唆しかけるために利用していた覚醒剤としてのヒロポンと、今度は、仕事のすんだあとで無理矢理に睡るためのアドルムを連用することにおいても、この三人は共通していた。
回想録――河上徹太郎「『安吾巷談』のスタイル」(昭和26年3月)
坂口君は当時独身の青年だったから、私などよりもっと接近して、牧野氏の家にも入りびたってつき合っていた。(中略)私の印象では、彼は飄飄とした、感受性も豊かで屈託のない、つき合いいい青年だった。その頃から彼は無帽蓬髪で、常にステッキを携えていた。ただ文学青年仲間の仁義である論争が初まると、彼程狷介不羈なものはいなかった。そういうことは頭の鈍い青年にはよくあることだが、彼程の理解力を以てしては不思議な位であった。それは、確かにいえることは、彼には殆んど病的な位激しい俗物嫌悪があって、それが彼の感受性の糧であり、同時に彼をそれ程依怙地にし、さては又殆んど苦行僧に等しい放浪の旅に出させたのだった。そしてそれが今や成熟して小説や巷談のスタイルの要素となっているのだといえよう。然しとにかく青年の狷介はさしあたり酒の肴に最も適している。酒間牧野氏はよく叫んだものだ。「安吾! お前はまだ中学生だぞ!」(註、牧野氏によれば、中学生とはまだ大学生でないことであり、大学生でなければ、学生ワグネル等と共にアウエルバッハの窖の常連として愉快な酒宴に加わる資格はない意である)
回想録――葛巻義敏「坂口安吾への手紙」(昭和30年4月)
しかし、このような不満は持ちながらも、何時も坂口安吾のことを考える時、私は一つの懐しい思い出がある。まだ、誰もが「認められてゐない」時だつた。われ/\は(本多信と、坂口安吾と、私は)、彼の云う「虚名」もなく、金もなく、東京の街から街をほつつき歩いていた。そうして、その最後に来るのは、神宮外苑のパーゴラの下だつた、そして、夜の更ける迄、三人とも言葉少く、そのパーゴラの下に腰を下ろしていた。そして、その空き地には、何故か知れないが、夕方近くになると、中国人の留学生の幾組かがやつて来て休んでいた。そして、彼等は讃美歌(だと思うが。)を歌つていた。暮れなずむ、そのパーゴラの下と、その空き地からは、段々人の姿が没して、歌声だけが聞えて来る。それらの歌声は、同じ「異国にある」われわれの心にも響いて来た。そして、それは、坂口安吾の心にも響いていたに違いない。(坂口安吾よ、その歌声は、いまも君の耳に響いているか知ら。――そのようにして、われわれに懐しい「青春」時代は過ぎて行つてしまつたのだ。)
回想録――坂口献吉(兄)「三人兄弟」(昭和31年9月)
安吾の小学生、中学生時代は全く手のつけられないキカンぼうで、毎日学校から帰ると、書物包は家の中へ放り込んで、すぐ近所の子供、数名または十数名を引率して、いわゆるガキ大将となって、町内を騒ぎまわったものであった。そのころであるから、兵隊ゴッコか何かで、垣根を乗り越えたり、大道を突っ走ったり、とても元気なものであった。時に自分より、はるかに丈の高い子供を部下として、大声で号令をかけている姿を今でも思い浮かべる。 少年時代から、特に文章がうまいとか、文学書を耽読するとかいうことは、ほとんどなく、ただ強いて言えば、探偵小説の芽ばえとでも言うか、少年のころ、忍術の豆本を読み、猿飛佐助の真似をするのだと言って、いきなり壁にかけ上って、逆さまにひっくり返っては、また飛び上ったりしていたことを想い出す程度である。 遊びが過ぎて、夕食時にも帰らず、夜おそく、帰宅したりすることがしばしばで、父母は全く困っていたようである。 安吾は、新潟の浜辺が生んだ自然児だったのであろう。縛られた生活の中にとじ込められるのが大きらいだった。
回想録――坂口三千代「亡き夫へ」(昭和30年4月)
そうして十七日の朝。 茶の間にそのままやすんでしまわれた貴方は次の間にねむっていた坊やと私におふとんを掛けに来て下すった。寒い朝でした。けむりの来ないように間のカラカミを閉め切って自分でストーブをつけて下すった。坊やがむずかり始めたし、この頃は坊やが寒くないようにといって時々ストーブをつけて下すったのであまり気にとめなかった。「みちよ、みちよ」と二度ほど呼ばれて、声が少し変な感じだなと思いながら行ってみると「舌がもつれる」といって、手まねで窓を開けることとストーブに石炭を入れることを言われ、「いったいどうなさったの」といいながら貴方がいつも石炭の煙がとても嫌いであったから窓を開けながら「舌がもつれる」と言ったので、もしや脳溢血ではと思ってふりかえると貴方は静かに横になられるところであった。抱きかかえるようにしてその場に横にさせると、私の顔をみて何かいいたいように見えたのでしたが、言葉にはならなくて両腕をちぢめ全身が痙攣しておりました。あわてた私は「待って下さい、今お医者に電話します」といってお医者を呼んだのですが、十分か十五分の間のまちどおしかったこと。(中略)それからお医者様が見えた時にはとうに意識は失っておられました。舌がもつれるとおっしゃった以外は私が何をいっても御返事もないし、いつから意識を失われたかもわからない。お医者様が二人で必死になってあらゆることをして下すったようですが刻々に心臓は弱まり意識は再びもどりませんでした。
回想録――坂口三千代「クラクラ日記」(昭和42年3月)
施設の関係で東大では重症患者は置かない仕組みになっていたから、兇暴な患者はいないし、その脳梅の患者をのぞいてはみんな静かで、精神病患者ばかりのきちがい病院のようなところは少しもなかった。(中略)
回想録――田村泰次郎「青春坂口安吾」(昭和30年5月)
戦後の坂口安吾は、がらりと性格が一変したように思える。いままで内にこもって、抑えつけるようにしてきたものが、すべてそとにむかって、自由にとびだした。彼が、戦前、こういう人間になりたいと、夢想していたような人間になったことは、彼としては満足だったにちがいない。女のことでもあからさまになり、昔はワイ談のワの字も口にしなかった彼が、おおっぴらに、女の身体の部分の俗語なども口にしたようだ。内向性が外向性に変ったというようななま優しいものではなくて、なにかそこには、凄まじいものがある。彼のような気弱で、恥ずかしがり屋で、陰鬱な男が、戦後の坂口安吾を打ちだすための魂の苦闘を想像すると、私は坂口を尊敬しないわけには行かない。それと同時に、意識の抑圧がとり除かれたことで、彼の文学からあの戦前の作品に見られた魂のうめきに似た奥深い、底知れぬような奇怪な魅力がなくなったことも、残念ながら、みとめないわけには行かない。
回想録――福田恆存「坂口安吾」(昭和28年6月)
あるときたはむれに坂口安吾にむかつて、あなたの小説よりエッセイのほうがおもしろいといつてゐるひとがあるが、どうおもふかといふ、もう答へはきまつてゐる愚問を発してみたことがある。案の定、かれは憤然として、そんなことがあるもんか、小説のほうがずつとおもしろいよと答へた。ぼくはかさねて第二問を用意してゐたのだが、邪魔がはいつてそれはきゝそこなつてしまつた。第二問といふのは、坂口安吾は評論を書くことによつて損をしてゐるのではないかといふことだ。自分の作品の楽屋をさらけだしてしまふといふ意味だ。これも愚問であつて、すでに答へは明白である――そんなことがあるもんか、だ。
回想録――牧野信一「『学生警鐘』と風」(昭和8年7月)
僕の知友に、風博士といふ男がゐる。いつも、あかちやけた髪の毛をばさばさと額に垂して、太い太いステツキを突き、ひよろりとして、大いに威張り、歩き振りと云つたらまつたく風に乗つたやうな大胯で、その速いの何のといつて孫悟空のやうだ。その男は、まんまと一にぎりの風をつかまへて、風に物を言はせたことがあつたのだが、ちかごろ彼の住んでゐる土地には風が凪いで、研究室で徒らに腕をこまねいてゐるさうだ。たまたま街へ出かけては、人間をつかまへて喋舌り散らすのだが、どうも辻妻が合はないで白つぽくなつてゐるらしい。どんな顔つきをして研究室の椅子に伸びてゐることやら――。ほんたうにあの男の姿と云つたら、顔つきからして風の国の先生のやうで、あの威張り臭つた声と来たら、屡々人間からは誤解を享けるもの、突風のやうなたくましさで、まさしく風を追ひかけてゐるものの風のやうな気ぐらゐなのだ。風博士が、風が吹かないで困惑してゐる格構をおもふと、定めしイライラとして書斎の中を歩きまはつてゐるであらうと、お気の毒になつて、せめてこの窓からの景色なりとも写真にとつて送つてやりたいと思ふのだが、生憎く僕は風を映す手腕に恵まれてゐないのだ。荒唐無稽の中からじやうだんを創ることの焦噪は、凡そ無稽ではない命かぎりの研究であらう。 あまり風が吹き荒むので、思はず彼の博士の上を憶ひ出した。 待つてゐる人もあるのだよ、風よ、博士の扉を叩きに行つて呉れ、世界中で君を歓迎するものはオランダの風車と、あの若い博士だけだよ。
回想録――三好達治「若き日の安吾君」(昭和30年4月)
小田原にゐたじぶん、その後もずつとその習慣は変らなかつたらしいが、坂口は無類の朝起で五時頃には既に床を離れて、洗面など省略したかも知れなかつたが早々に机にむかつてまづ書ものをはじめてゐた。売文に熱心であつたといふ訳ではない。当時彼の原稿はいつかうに売れゆきが思はしくなかつた。それでも彼は書ものを廃する日がなく、売れると売れざるとは意に介しないもののやうに午前中は机に向つてゐた。食事はお昼まではとらうとしなかつた。それが毎日であつた。他のことは相当になげやりの方であつたが、安吾さんのあの勤勉ぶりはまことに徹底的に見事であつた。あの彼の快速な達意の健筆も決して一日に出来上つたものではない。私は傍らにあつていつも感服してそれを眺めながら、不敏にしていつかう学ばうとはしなかつた。