蒼茫夢

坂口安吾



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 冬の明方のことだつた。夜はまだ明けない。然し夜明けが近づかうとしてゐるのだ。夜の不気味な妖しさが衰へて、巨大な虚しい悲しさが闇の全てに漲りはじめてゐる。草吉はそのとき自然に目を覚した。
 室内も窓の彼方も一色の深い暗闇ではあつたが、重量の加はりはじめた寒気と、胸苦しい悲しみの気配によつて、もはや夜明けに近いことを推定することができた。四時半前後であらうと思つた。
 草吉の日毎の目覚めは衰亡の中へ滑りこむやうに展らかれてくるので、殆んど愉しいものではなかつた。それに目覚めた数分のあひだ、奇妙に不吉なことばかり頭に浮んでくるのであつた。ひとつには理性の失はれた時間のせゐであつたらうか。たとへば肉体を腐せてゆく悪疾の気色の悪い映像であつた。病魔は肉体を黒色にむしくひ、汚水のたまつた脳漿の中を蛆虫のやうに蠢めきまはつてゆくのである。目覚めにそれをみつめてゐる数分のあひだ、然し草吉の心に湧き起るものは不快でもなければ恐怖でもなかつた。全てがひとえに静寂であつた。それを包む全ての心が無のやうであつた。生あるものは不吉な映像それのみであり、それは遥かな虚無の中に生れ出で、虚無を観客にちらめきうつり、さうして冬空の星の如くにそれ自らも凍りついてゐるのであつた。全てが凍るといふ冷静な感じであり、草吉の苦痛も悲しみも、在るといへばそれは確かに凍りついて在るのであつた。
 その悪疾は、今は草吉の妻であり、以前は港の売春婦であつたしのぶが彼にうつしたものであつた。夫にうつした悪疾のことを思ひだすとき、世間なみの感情を忘れた冷涙の女が、顔をうつむけて涙を流す。
 とりわけ不快とよぶほどの映像ではなかつたのだが、然し草吉はそれらのものを考へまいとして、目覚めた瞬間の心の中で美くしい風景を思ひださうとすることもあつた。ひろい海原もみえるのだつた。はるかな山岳も映るのだ。雲も、曠野も、異国の街も、押しつけがましく入れ換り立ち換りに現れてくるが、悲しさを脱ぎすてたやうな気持にはならない。
 その未明おのづと草吉が目を覚して暫くの時がすぎたとき、ほのかな一ときれの白が空の奥手に浮かびでたやうな気配がした。気配はしたがそれは草吉の気のせゐであつた。実際は明るくなつてゐなかつた。然し夜明けが近づいたと彼は改めて明確に意識したのだ。さうして起きて机に向はうと考へた。そこで起きる動作にとりかからうとする身構えの途中で、彼の意識は始めて藪小路当太郎の存在にひつかかつたのであつた。当太郎はゆふべから草吉の家へ遊びにきて、彼の隣席にねむつてゐる筈であつた。
 客のねむりを妨げはしないかといふ思ひつきから、草吉は立ち上る姿勢の途中で電燈をつけることに躊躇を覚え、そこで暫く身動きを失つた。ところが立ち上つてしまつたときには、投げやりなくらゐアッサリと電燈をつけてしまつてゐた。なるほど、当太郎を思ひだすことが遅れたのは、その場所に音がなかつたからであつた。見れば当太郎はゐないのだ。寝床はもぬけのからであつた。
 藪小路当太郎は忍が港の曖昧屋でカクテルシェーカを振つてゐた頃、繁々とその店を訪れた常連の一人であつた。草吉も亦さうだつた。二人はその店で知りあつたのだ。当太郎は草吉よりも五つ年少の二十五歳といふ若者だつた。
「いすらえる」といふその酒場は毛唐と日本人と半々ぐらゐの常客があつたが、港でも場末の店の通例で、毛唐の質は至つてよろしくない。その大部分は印度、露西亜、ヒリッピン、支那人なぞの行商人や下級社員で、白人の方は飛入りの船員は別として、露店商人とか自称音楽教師、乃至は外国語個人教授なぞといふ看板をぶらさげた怪しげな裏道商売のてあひであつたが、然しこのてあひに限つて、目と鼻のどんな近い四ツ角からでも必ず自動車をのりつけてくる、「こんばんは、お花しやん」なぞと呟きながら、いやに重つ苦しい面魂に、むつとする安香水の匂ひをプンプン発散させながら這入つてくるのが普通であつた。
 かういふ店へ、藪小路当太郎は誰に誘はれもせず、一人ぼつちで舞ひこんできた。それから何んべん訪れてきても、地上に友達を持たないやうに必ず一人きりだつた。これは草吉がまたさうだつたのだ。さうして二人は友達になつた。
 当太郎が好きな女は忍と同じ年輩の、店の名前をマリヤといふ当時二十三歳の文学少女くづれだつた。骨のやうに瘠せてはゐたが病的に旺盛な性慾をもてあましてゐる女で、その女の一切の悲願が性慾の二字に尽くされてゐることを、黒くよごれた眼のまわりと猛禽の鋭い眼付によつて、隠すことなくむきだしてゐた。マリヤも自らの言葉によつて、それを言ひきつてゐたのだ。客の間に誰言ふとなく彼女を山猫と称ぶ習慣がついてゐたが、これは極めて適切にマリヤの内外全ての実相を言ひ当ててゐた。
 こんな処に働いてゐる女達は、我々が卑小な現実をより以上に高めやうとあせるところの多くは空しい企てにとつて、全く縁がないのだつた。建設的な労力、無窮の精神史が探究に疲れてきた貴重な真理、さういふものは彼女等に全く無用なのだ。彼女等はそんなものに見向きもしないし何も知らない。然し我々の実相を、その最も肉体的な、原始的な、本能的な角度から眺める限りに於て、余言をさしはさむ余地のない適切を洞破するものも彼女等だつた。
 肉体を超えたところに自らの真実の根をおろしたいと焦せるところの若々しい真剣な懊悩、さうしてその懊悩に青ざめきつた若者の不羈独立の魂は、肉体に全てを賭けて身ぢろぎもしない彼女等の前に現れるとき、往々全ての理想を地に砕かれ、絶望の安息を感じることがある。当太郎がさうだつた。
 彼は山猫に一種の救ひを感じたのだらう。さうして、その山猫と二本の材木のやうに重なりあひ絡みあつて沈湎するところの暗黒の行に一層の救ひを空想した。ところが山猫に惚れてしまふと、相手は肉を売る商売女に拘らず、当太郎は女に言ひよる大事な度胸がなくなつたのだ。これは奇妙な話だつた。
 山猫に惚れてしまつた当太郎は、どういふ複雑な思ひつきからきたものか、身体の八方に繃帯をまき、重病人の風態をして通ひはじめた。左腕は首につるし、右足は仰山にびつこをひき、竹の杖に縋りながら奇妙奇天烈な腰つきをして、ひどい渋面をつくりながら街を通つてくるのである。それが毎日のことだつた。あとで判つたところによると、当太郎は微塵も怪我をしてゐないのだ。
 酒場へくると山猫には見向きもしないで、他の女と凄く真面目に話しこんだ。その女と毎晩泊つて、たうとうしまひに同棲してしまつた。山猫には始めから言ひ寄りもしないし、山猫の方でも贋病人を眼中に入れてゐなかつた。
 好きでもない女と同棲して二月ふたつきすぎると、自分でもわけが分らず這々ほうほうの体で逐電した。女から逃れたといふよりも、もつと大きな異体えたいの知れない圧迫に脅やかされて、夢中に逃げだしたといふ形だつた。何物かに追はれる思ひで、人気離れた山奥を八方に逃げまはつたあげく、信濃の宿で自殺を企て、生き返つたのを機会にして舞ひ戻つてきた。そのときから一ヶ年半すぎてゐた。
 舞ひ戻つてのち、草吉の新居を始めて訪れたのは五ヶ月ばかり前のことで、深夜の街をうろついてゐたばつかりに留置場へほうりこまれた帰りだと言ひながら、南京虫に食はれた傷を痛がつてゐたが、すこし休ませてくれと言つて白昼午睡して帰つていつた。すると翌日手みやげを持つてすぐやつてきた。それから繁々と訪れはじめた。
 その様子をみてゐると、忍の異母妹で弥生といふ十九の娘が草吉の住居に同居してゐるのであつたが、当太郎はその娘に気があるのだといふことが人々に判つた。
 さういふことが判つて一月ほど経過した一日のこと、彼は突然羽織袴といふ見慣れぬ風体で現れた。部屋へ通ると、特に弥生に同席を願つておいて、改めてキチンと坐り直したかと思ふと、却々なかなかしつかりした口調で幾分早口に求婚の言葉を述べた。それから誰一人挨拶のできないうちに、こんどはひどく落付払つて、一段と声を改めたうへ、自己の懐く人生観といふものを諄々と説き明しはじめたのだ。これが朗誦とか演説とでも言ひたいやうな代物で、まづ立板に水を流すが如しといふか、三十分あまりのべつ口きらずに喋べりまくつたのであつた。
 呆気にとられて控えてゐた一座の面々、漸く話に一段落がついたときには、当太郎の落付払つた一瞥をくらつて矢庭に我に返つたとはいふものの、単に甚しくホッと一息ついた形で、さて改まつて返答を探し直すには充分骨の折れる状態だつた。この様子を見てとると、当太郎はまるで待ち構えてゐたやうに更に一段と声を改め、今度は何やら一層うねうねした高遠な心境を弁じはじめたのであつた。これは正味一時間たつぷりのものだつた。草吉の耳にはプラトンだとかエピキュロス、フッサル乃至はボードレエル、パスカルなぞといふ聞き覚えの名前が、あちらで一つこちらで一つ飛びこんでくるぐらゐのもので、まして二人の女には徹頭徹尾わけの分らない寝言だつた。
 長談義が終りさうな気配になつたところで急に又舌に油がのりはじめ、何度となくさういふことを繰返して一座の人々を散々悩ましてゐたが、突然話にバタ/\と結論をつけてしまふと、まるつきり今迄と違つた顔付をして一息入れた。それから結婚の話とはまるで別な、とんちんかんな世間話を然し甚だ落付いて二言三言交しておいて、それで何一つ思ひ残すことはないといふやうなサバ/\した様子で帰つていつた。勿論弥生の返答は皆目きかずじまひであつた。返答の隙さへなかつたのであつた。それから二ヶ月あまり音沙汰がなかつた。
 十日ほどまへ二ヶ月ぶりで訪れたときには、遠い旅をしてきたと言つて、南国のピカピカ光る海の話やはも漁の模様などを図解入りで話してゐたが、縁談のことには頭から足の爪まで無関心の様子であつた。その後もさういふ同じ様子で二三度訪れ、ゆふべは晩くまで話しこんだあげく、泊ることになつたのである。その当太郎が寝床の中に見えないのだつた。
 ――気まぐれに帰つてしまつたのだらうか? それも珍らしいことではない、と草吉は心に思つた。
 然し気にかかることは、階下にねてゐる女の寝床へ忍びこんでゐないかといふことだつた。草吉の頭は思ひだす、当太郎のゆふべの話は、南国の漁村で、飽くことを知らない海女の寝床へ忍びこむ話が大部分であつたのだ。そのときの思ひありげな話振りを考へてみると、夜這ひの目的をもつて泊りこみ、のみならずそれをほのめかすことによつて変態的な満足を感じてゐたと思はれる節が充分にあつた。
 ――降りてみやう……
 然し草吉はまた躊躇した。疲れに似た放心が、こんな時に遠い涯から流れかかつてくるのだつた。階下へ向けて耳を澄ましてみることが、このとき可能な全てであつた。まさかに殺しはしないだらう? 草吉の心に猥褻な嫉妬が沸きおこり、それが再び複雑な放心に還つてくるのだ。冷静な彼の心が、冷えた興奮のあまりであることが分るのだつた。
 そのとき階下に一つの小さな物音がおこつた。人の立ち上る気配であつた。誰といふことが分らない、障子を開けて歩きだす様子だつた。さうするうちに、わあッといふ塊まりのやうな叫びが起つた。それからかとききとれない叫喚が原因不明のけたたましい物音と前後して響いてきた。それは弥生の声であつた。改めて草吉を呼んだ声もきこえた。
 草吉は立ち上つてゐた。自分では強ひて落付いたつもりであつたが、たしかに急いで階段を降りた。階段を降りたところに廊下があつて便所があり、廊下の隣は二人の女が寝んでゐる六畳であつた。部屋はこのほかに入口の二畳が一間あるばかりである。
 廊下へ降りついてみると、廊下に人影はない。六畳と境ひの障子もしめられてある。どうした、と、草吉が障子の外から声をかけると、自分の部屋へ跳び戻つて頭から蒲団を被つてゐると覚しい弥生の掠れた声がして、「便所の中よ」と言つた。
 便所には燈火あかりがついてゐた。戸を開いてみると、当太郎が下一杯にうづくまつてゐた。首をくくつたのであつた。その縄が斬れて、落ちたのだ。草吉の目の先に一本の縄がだらりと吊り残りぶらついてゐたのだ。
 二人の女は漸く怖々起き上つて細目に障子を開けたが、障子の奥から現れて来やうとはしない。草吉が屍体の上にかがみこんで、下一杯にひろがつた形の中から当太郎の顔の部分を探してゐると、
「とても医者へ行けないわ……」
 と、ふるへる声で、弥生はもう懇願するやうに呟いてゐた。
 顔をみつけて少し光の方へ壊してみると、口からか鼻からか流れ出たものが下の方にたまつてゐて、涙も流れてゐたし、顔は一面によごれてゐた。血のやうな黒いものも流れてゐた。ことぎれてゐるのだらうか? とにかく医者をよばう。……その考へが草吉の心に蘇みがへつたとき、同じ思ひを更に激しい恐怖と共に思ひだした二人の女は、両の眼をまとまりなく光らしてゐるばかりで、化石してゐるのだ。暫時さういふ沈黙がつづいたとき、下一杯にひろがつた形が、ねぢまげた顔のあたりから動きはじめたのであつた。
 当太郎は生き返つた。意識を失つてゐたのだつた。
「生きてゐるんだよ」
 と、自分を看まもる人々に教へるやうに、彼は嗄れた声で呻いた。然しいくらか動かしかけた頭も元の場所へ再びぐつたりもぐしてしまつて、一杯ひろがつた形のまま、また動かなくなつてしまつた。
「しくじつた! もう死ねない!」
 と、彼はつづけさまに呻いた。
「君達が起きる前から正気づいてゐたのだ。君達が来てからのことも、みんな分つてゐたのだ。すこし睡むいのだ。いろ/\のことが分りかけたやうな気がしたんだよ。それももう分らなくなつてしまつたやうだ。とにかく、もう大丈夫なんだ。心配せずに寝床へひきとつてくれ。俺もすこし睡むりたいのだ」
 然し三尺四方の床の上へ一杯ひろがつた形は、依然微動もしなかつた。そのまま数秒の時が流れた。彼は突然もく/\と起きあがりはじめた。起きあがつてしまふと、羽目板に両手を支え、暫く俯向いて目をつぶつてゐたが、
「おひるまでねむらせてくれ」
 と独話のやうに呟いておいて、急に振向いて、手探りでもするやうな恰好で動きはじめた。人々の顔は目につかないのか、その方には目をくれず、二階の寝床へあがつて行かうとした。
「顔を拭いて――」
 と忍の叫ぶ声なぞも耳にはいらぬのであらう、ただ夕空の蟇のやうに階段を這ひ登つていつた。草吉はその後ろからついていつたが、汚いものをつけたのか、汚物を漏らしたのか、とにかく悪臭の堪えがたいものがあり、それが草吉の朦朧と痺れた頭に、人の死生喜怒哀楽は汚物の悪臭芬々たるが如く卑小にして醜しといふ感を与へた。
 当太郎は二階へ登ると、いきなり寝床へころがりこみ、頭からすつぽり蒲団を被つた。然し草吉が一緒に登つてきたことを知ると、
「しくじつたよ。もうだめだ。もう死ねないよ……」
 と蒲団の下から先刻と同じ言葉をもらした。ほんとに苦しくはないのか、医者をよぶ必要はないのかと草吉が尋ねると、ほんとに苦しくないのだ、お午まで静かに睡むつてゐたいのだと答へ、やがて顔から蒲団をとりのけて、正しい寝息をたてながら睡むりはじめた。そのときもはや夜は白々とあけはじめており、まだ太陽は昇らなかつたが、仄かな薄光が当太郎のよごれた顔にもかかつてゐた。
 草吉がはじめて便所の戸をひらいたとき、さうしてそこに当太郎の屍体を見出したとき、彼の胸をまづ流れたものは、ここにも一人の愚かな奴、それがまさしく便所の中にころがつてゐるやうに一匹の息絶えた巨大な蛆虫、さうして、なんといふうるさい出来事であらう、といふ考へだつた。
 ところが当太郎の生き返つた今となつて、改めて草吉の胸を流れたものは、ひややかな一つの悲しみであつた。たうていいやしがたく割切りがたい苦汁のやうな哀愁であつた。それに溺れ、濁水のやうな澱んだ流れに浸つてゐると、ある大いなる静かなものへ、ののしり、いきどほり、躍りかからうとする狂気の心も感じるのであつた。
 長い時間がすぎてから草吉が階下したへ降りてみると、二人の女は各々の激しい放心に悩まされてゐた。
「どうして死ぬ気になつたんだらうね!」
 と、忍は忿怒に眼を輝やかせて、くひつくやうに言つた。口惜しさうな顔付だつた。忍が異常に亢奮してゐることは、部屋の片隅へ縮むやうに坐りこみ、ちやうど腕組みでもしてゐるやうな角張つた形をしながら、ちよつとした身動きも容易でない様子から、それと分るのであつた。さういふ忍自身は、ここ数年のあひだ屡々しばしば死にたい気持に襲はれながら、自分の死相には全く気付かないのだつた。
「便所なんて、汚らしいよ! 死んでごらん、ほんとに蛆虫がぶらさがつてゐるんと変りがないよ」
 忍はプン/\しながら叫んだ。
「死ぬにも便利だし綺麗な場所は方々にあるよ。全く気がきかないね、自分だつて臭くつて窮屈だらうにね」
「いいよ/\、お姉さんには分らないよ」
 弥生が突然泣きほろめいて叫びはじめた。
「お姉さんに死ぬ人の気持が分つてたまるもんか! あたしだつて便所の中で死なうと思つたことが、なんべんもあつたわ!」
 さういふと弥生は、ヒステリックな叫喚をあげて泣きだしてしまつた。
「いやだよ、便所の中、便所の中つて。野原のまんなかぢや死ねないもんかね!」
 忍はシュミーズの上へ外套をひつかけ、素足に靴をつつかけたまま、朝食も終らないうちに散歩にとびだしてしまつた。
 午すぎてから当太郎はめざめた。顔は激しく憔悴してゐたが、ふだんと変りない気楽な様子で、目覚めると間もなく帰つていつた。


 その翌日のことだつた。夕食の時間までは何事もなかつた。
 くろずんだ電燈の下で夕食も終ると、一日の心がやうやく帰つてきたやうな、遠い疲れと放心がわかるのだつた。すると、その時までは何の別状も見えなかつた弥生が、突然部屋の片隅ではりさけるやうに泣きだした。あまりにだしぬけなことであり、そのうへすさまじい泣声だつた。
「どうして藪さんは来てくれないの! こんなにあたしが待つてゐるのに!」
 と弥生は叫んだ。
 その時まではなんの涙やら皆目見当のつかなかつた草吉と忍は、その言葉でやうやくわけが分つてきた。弥生は当太郎の訪れを終日心ひそかに待ちわびてゐたのだ。夕食も終り、夜も落ち、どうやらその日は姿を見せさうもないと決まつてしまふと、たまらない気持になつたのだつた。然しかう判つてみても、この出来事は思ひもよらないものであつた。
 当太郎がはつきり心をうちあけた日も、あんな人たよりないわと、弥生は躊躇なく二人の人に言つた。殆んど関心がもてないやうすであつた。ましてそれからの二ヶ月あまり不意に音沙汰がなくなつてしまふと、当太郎が落していつた幾らでもないしみは弥生の心から跡形もなく立ち去つてしまひ、久方振りで南の旅から帰つてきても、弥生はなんのこだわりもなく無関心で、全てが過ぎ去つた様子であつた。新らたな変化は当太郎の自殺未遂から起つたのである。さうとしか思はれないのだ。
「へえ、そんなことを一日むつつり考へこんでゐたのかね! このは! 油断ができないね!」
 忍はひどく面食つて、素つ頓狂な大声で叫んだ。
「だつて会ひたいんだもの」
 弥生は涙をふいて言つた。
「会つてどうするのさ」
「どうするつて、会ふだけでいいのよ」
「首をくくられて、惚れたんかね。あんたも相当ないかものぐひだよ。結婚しませうつて言ふつもりなの?」
「ううん」
 弥生は首を横にふつて、暫く俯向いて黙つてゐたが、独語を呟くやうに言つた。
「今迄と違つた気持で会つてみたいのよ。だつて、今迄はあんまりあたしが何も考へてゐなかつたわ。だから、考へながら会つてみたいのよ」
「あんたも相当にしよつてるよ。あんな自殺は、あんた一人のせゐぢやありませんからね。藪さんの自殺なんて、八幡の藪知らずでリュウマチのむじなが迷つてゐるやうなもんですよ。しよつちう気まぐれなんだからね。お前さん一人が迷はせてるんと思ふと、大変なまちがひなんですよ」
「それでもいいのよ。会つてみれば分ることぢやないの」
「さういふもんですかね! 勝手にしなさいよ!」
 忍は癇癪を起しかけて立ち上つた。鏡のある方へ歩いていつたが、鏡をみずに、ねころがつた。
「昨日の今日だもの、藪さんだつて疲れたでせうよ。熱くらゐだして、今時分はうん/\唸つてるかもしれないよ」
「病気ならあたし看病に行くわよ……」
 弥生は再び泣きださうとして、顫える笛ののやうな細さで言つた。
「お兄さん! 藪さんをつれてきてよ!」
 さう叫んで、弥生は再びけたたましい叫び声を発して泣きだしたのだつた。
「しやうがないね。藪さんちへ行つてきて下さいよ」
 と畳の上へひつくりかへつた忍が言つた。
「うむ。行つてみるか」
 草吉は唸りながら立ち上つた。
 凍てついた夜の中へ歩きだした草吉は、自分の心に皆目目当のないことが、まもなく分つてきたのだつた。当太郎を訪ねたい気持は微塵もなかつたのだし、どこへ行きたい気持もなかつた。歩いてゐたい気持だけが分るのだつた。
 幾つ目かの曲り角へ差しかかつた時は、碁会所へ行つてみやうかと思つた。然し遊びの相手をする見知らないの男のことを思ふと、すぐさま気持が滅入つてきた。ちやうどそこへ来かかつた親切さうな通行人を呼びとめて、自分の住居に近いあたりの出鱈目な番地を述べて道を尋ねた。生憎その男はこの界隈の地理を知らない人であつたが、草吉は悦ばしげになんべんとなくお辞儀をして別れることが愉しいのだつた。活動写真の看板を眺めに行かうかと考へてみたが、歩みは自然に暗い方へ向けられて、鉄道線路沿ひの、沼地のやうにじめ/\とした草原へ現れてゐた。線路を越した向ふ側に工場があつた。すでに全ての燈火は消え、夜空にくりぬかれた風洞のやうな、巨大な黒色の影となつてのしかかつてゐた。なぜか草吉はひかれるやうに四角な広い坂囲ひを一周した。大きな澱める虚しさが、草吉の心に休息に似た静かな愁ひを与へるのだつた。彼は心に呟いた。
 ――俺でさへあのほのぐらい線路へ今から横はりに行くこともわけがないのだ。さうしてそれが、単にこの巨大な風洞のやうな虚しい建物の影を見たからにすぎないといふのは、不思議なことだらうか。またその俺が、この巨大な風洞のやうな夜空の影を見たために港の酒場へ行つて女を膝にのせながら酒を呷つてゐたとしたら、それは不思議ではないのだらうか。…………
 草吉の心はなぜか生き生きと浮きたつてきた。彼は自らの耳へきかせるやうに、声高に呟いた。
 ――あの風洞のやうな巨大な夜空の影を見て、さうして、死なうともしなければ港の酒場へ急がうともせず、かうしてただ暗い路を歩いてゐる俺の姿は、不思議ではないのだらうか。…………
 草吉は暗闇の空へ顔を突きあげて笑つた。線路伝ひに停車場の方へ歩いて行つて、二三度暖簾をくぐつたことのある泡盛屋へはいつた。甘臭い、さうして癖のある液体を、無理に五杯のみこんだ。それから漸くのことで、当太郎を訪ねてみやうといふ心がたかまつてきたのだ。その時はもう九時であつた。
 藪小路当太郎はかなり名の売れた割烹店のせがれであつた。父親は死んでゐたから、本来なら相当に責任のある立場であつたが、店は専ら母親と妹がきりまはして、彼は関係しなかつた。家業を厭ふといふのでもないが、家庭の無形の束縛を激しく憎んでゐたのだ。その反面に異常な母思ひで、また妹を熱愛した。同時にその断ちがたい愛情が、家庭の無形の束縛となつて彼を苦しめる一因ともなるのであつた。
 当太郎は幼少の頃から母親の切な希望をしりぞけかねて、自分では好きになれない茶の湯や活花のゆるしまで取つてゐたし、長唄はその道の識者を驚ろかすに足る芸だつた。腕を首につるし、仰山にびつこをひき、ぢぢむさい握りのついた杖にすがり、へつぴり腰をしながら港の酒場へ通ふ男が、家庭では母と妹の相手をして静かな昼下りや宵のひととき現世のものではないやうな三曲合奏をしてゐたり、母のたてる一服の薄茶を行儀正しく啜つてゐたりするのだつた。さういふ世界の古めかしい因習や畸形的な無形の性格が、母親の祈願には無関係に育ちはじめた当太郎の新らたなさうして奔放な人生苦難の世界にとつて、鼻持のならない原罪の姿をとり、自己嫌悪を深めさせた。家庭の自分を友達に見せることさへ彼は厭がるのであつたが、自分一人で自分の姿を意識するのも容易ならぬ苦痛であつた。日常のどういふ意慾や感情の中に自分の真実の姿を探していいのか分らなくなつてしまふのだつた。
 その夜草吉が訪ねてみると、当太郎は病気と称して前日から寝床の中に暮してゐた。二階の部屋へ通つてみると、読みちらした書物や、書きなぐつた紙が寝床の四方に散乱しており、当太郎は疲れきつてゐた。両頬はげつそり落ち、額はやつれ、肢体も目立つて瘠せたやうに思はれたが、二つの眼だけ狂つた獣のやうに光つてゐた。草吉の住居から立ち戻つて以来、一睡もとらずに書いたり読んだりしてゐたのだと言つた。
 草吉は用件を手短かに物語つた。草吉の心はその用件に殆んど興味がもてないのだつた。その気配が当太郎の尖つた神経にもうつつたのか、彼も亦興味のもてない顔付をしてきいてゐたが、然し同道する、と即座に答へた。
「ゆふべからズッと君へ手紙を書かうとしてたんだよ。分りかけたやうな気持だけして、その実正体のつかめない色々のことが、手紙でも書いてるうちにヒョッとして突きとめることができやしないかと考へたのだ。ところが書きだしてみると、疑ぐる必要のなかつたことまで、みんな嘘つぱちにみえてきたのだ」
 当太郎は立ちあがつてから、何か考へだすやうな様子をしながら言つた。
「君はだうして生きてゐるのだらう? 俺は自殺の資格さへないと考へるときでも、君くらゐ死のほかに道の残されてゐない人を見出すことはできないやうな気がするのだ」
 彼は突然眼を輝やかして草吉を見凝めながら、幾分息をはづませて言ひだした。
「君は夜道の街燈なんだよ。一途に何かを照さうとしてゐる、なるほどうるんでぼんやりと光芒をさしのばす。然し結局君を包む夜の方が文句なしに遥かで大きい。君を見るたびに街燈の青ざめた悲しさを思ひだすのだ」
「俺は生きたいために死にたいと思はない。自殺は悪徳だと思つてゐる。俺の朦朧とした退屈きはまる時間の中でも、実感をもつて自殺を思ひだしたことは三十年の生涯に恐らく一度もなかつたのだ」
 と、草吉はいましめるやうな静かさで言つた。当太郎は暫く俯向いて黙然としたが、然し全く反抗の気勢は示さなかつた。やがて顔をあげると、小児のやうな弱々しい微笑を浮べて草吉を見凝めながら、
「然し君の方が俺よりも死にたがつてゐるのだよ」と呟いた。
「無意味だ」と草吉は棄てるやうに呟いた。
 二人が襖をあけて出やうとすると、隣室の襖が開け放たれて、小柄な娘が叫びながら走りでてきた。妹のまさ子であつた。
「お兄さん! 行つちやいけないわ! 死んぢやうよ! 殺されちやうよ!」
 まさ子は前へ立ちふさがつて当太郎の手をとつた。
「草吉さんはお兄さんを殺してしまふんです。お兄さんを行かせないで下さい! 身体のことばかりぢやないんです。頭も弱つてるんですよ。お兄さんは昨日から一睡もとらないんです。それにこの三四ヶ月色々の意味で衰弱が深まつてゐるのです。さういふあとには怖ろしいことが起るのよ。草吉さんはお兄さんを理解してゐないんです。お兄さんの仮面の下の神経の弱さが分らないんです」
「心配することはないんだよ」と当太郎は妹に言つた。言ひながら彼は顔をあからめた。
「この人には理解が必要でないのだ。全く同質のものが通じてゐるからなのだ。心配することはないんだよ。それほど疲れてゐるわけではないのだ」
「お兄さんは帰らないつもりでせう?」と娘は激しい声で言つた。
「帰つてくるよ」
「いいのよ! いいのよ! 帰つてこなくつともいいのよ!」
 まさ子の顔は蒼白になつてひきしまつた。彼女はヒステリックに肩をふつて叫んだ。
「いいのよ! 自殺するなら自殺してしまひなさいよ!」
 彼女は突然袂をとりあげて顔にあて、はりさけるやうに泣きだした。重い無言の時間が来た。然し二人の男達は立ち去らうとして静かな身動きを起した。するとまさ子は袂に顔を押へた両手のうちから、片手だけを取り離して草吉の袂を押へた。
「お兄さんをとめて下さい。悪い結果になることが分つてるんです。普通の状態ぢやないんです。今がいつと危険な時なんです。お願ひですから、行かせないで下さい!」
「大丈夫なんだよ。心配はいらないのだ」
 と、草吉の代りに、当太郎は再び顔をあからめて呟いた。
 すると、隣室の襖の陰から、まさ子のそれに甚しく相似の極めてヒステリックな中年婦人の声が響いてきた。
「行かせなさいよ! どこへでも! 母アさんを置いて行けるやうなら、どこへでも行かせなさい! とめるんぢやないよ、まさ子、ああ、とめるんぢやないとも……」
 その声は終らうとして涙ぐんだ。一瞬ひきしまつた怖ろしい沈黙がきた。当太郎の蒼白な顔に突然かすかな紅潮がさした。彼はちやうど全身の力をふりしぼつて叫ばうとする小犬のやうに首をのばした。さうして、見えない奥手の気配に向つて鋭く叫んだ。
「母アさん! 大丈夫なんだよ! 心配することはないんだよ!」
 然し襖の向ふから返事の響きおこる気配はなかつた。当太郎はなほも叫ばうとする身構えをもつて、暫く棒のやうに直立してゐたが、やがてバラ/\毀れるやうに姿勢をくづした。それをきつかけに二人の男はどや/\ともつれた跫音あしおとを鳴らしながら階段を降りた。さうして無言で外へでた。
 草吉の住居へ辿りつくまで、二人は全く無言であつた。すでに十一時も近かつた。
 疲れきつた当太郎も部屋の光の中へはいると急に生き生きとした色を浮べた。さうして屈託のない少年のやうな饒舌になつた。
「この部屋が好きなのだ」と彼は愉しげな微笑を浮べながら、人々を見廻して言つた。
「旅さきでもこの部屋を思ひだすときが愉しい時間の一つだつたよ。昨日も今日もこの部屋を考へるときが休息の時間なのだ。今夜呼びだしに来てくれないと、やりきれない夜になるところだつたよ」
「冗談ぢやないわよ!」と忍は癇癪の色をあり/\と現はして真剣に叫んだ。
「この部屋で首でもくくられたら、こつちがやりきれやしないよ! うちぢや暫く藪さんを泊めませんからね! 真夜中でも嵐の晩でも帰しちやうよ」
「そんなに度々やれるもんぢやないよ。もう死ねないんだ。俺の自殺なんて全くだらしがないことなんだ。俺は意気地がないのだよ」
 と当太郎は少年の無邪気な哄笑に破顔しながら言つた。
「自殺する藪さんつて、ほんとの藪さんぢやないのよ。ほんとの藪さんは単純で無邪気よ。単純な人が人真似に勿体ぶつて複雑さうな顔をすると、死ぬよりほかに恰好がつかなくなつてくるのよ。あたしがさうよ」
 と、弥生は急に甲高い声で喋りはじめた。
「ほんとに藪さんに会ひたかつたわ! 今くるか、今くるかと待つてゐたのよ。たうとう泣いちやつたわ」
「ところが俺の方ぢや、君の倍くらゐ会ひたいと思つてゐたのだ」
「ぢや、なぜ一人でこなかつたの?」
「会ひたいことと、会ひに行くことは、まるつきり別のことだよ。ほんとに会ひたいと思ふ人には、会はなくとも会つてゐるのだ。いや、会はない方が、その人のほんとの姿に会つてゐることになるんだよ。顔を見なけりや会つたことにならない人は、心から欲しかつた人ぢやないのだ」
「だつて、あたしの方ぢや藪さんの顔を見なけりや会つた気持になれないわ」
「さうなんだ。だから俺がこうしてのこ/\やつてくる。さうすると――さうだ、会つてみたつて君はたいして面白くもなんともないぢやないか。君は俺を好いてるわけでもなんでもないんだ。それでいいんだよ。だけど、俺がここへ来たのは、君の顔を見たい気持が多かつたのさ」
「さうよ、さうよ。あたしは藪さんが好きなわけぢやないのよ。だけど――藪さんはよく分つてゐるわ! さうよ。ほんとに完全に好きぢやないわ。藪さんがあたしのハズだなんて、考へただけでも笑ひたいことなんだわ」
 弥生は白痴のやうな単純そのものの喜悦を眼にみなぎらし、情熱のこもつた甲高い声で叫びつづけた。
「でも、ほんとに藪さんはよく分つてゐるわ! あたしね、藪さんが来てくれないつて、わあん/\泣きだしちやつたのよ。そりや、ほんとよ! 藪さんの来てくれないのが確かに淋しかつたのよ。だけど藪さんが好きなわけぢやなかつたの。でも藪さんがやつてきたら、しよつちうあたしを好いてるやうに仕向けやうと考へてゐたわ。相当のことを考へてゐたのよ」
「さうさ。そんなことは白状しなくつたつて分つてゐますよ。子供のくせに一人前の女ぶつて、今からそんな風ぢや、困りもんですよ。だけどすつかり白状するところは、あんたもすこし可笑しいよ」
「さうなのよ……」
 弥生は袂に口を押へて高い叫びをあげながら笑ひだした。ところが笑ひの途中から、急に顔を掩ひ隠して、絹をさくやうに泣きだしてしまつたのだ。
「あたしはとても不幸だわ」
 と、弥生は欷泣すすりなきながら言つた。
「あたしのほんとの悲しい気持は誰にも分つてもらへないわ……」
 ところがまもなく泣きやんでしまふと、忽ち浮き浮きと笑ひはじめ、「ふん、ヒステリーだよ」と何の翳もない無邪気な両眼を輝やかせながら呟いてゐるのだ。
「さうだ! 俺が考へてきたとほりだよ。全くそつくりそのままなんだ!」
 と当太郎は喜悦にみちた声で叫んだ。
「ちやうどこんな愉快な会話、たのしい一夜を想像しながら遊びに来たのだよ。すると、そつくり想像のとほりなのだ。まるで思ひのこすことがないくらゐ、気持がはればれしてしまつたのだ。これで気持よく家へ帰つて休むことができるんだよ」
「藪さん、泊つてもいいわよ。さつきはちよつとおどかしただけよ」
 と忍が言つたが、うちでも心配してゐるからと言つて、やがて当太郎は立上つた。
「俺もすこし歩いてみやう……」
 草吉は朦朧と立上つた。
 なにか虚しい霧雨のやうな屈託が降りしきつてゐて、それまでは物を言ふ気持も浮かばなかつたし、人々の話も夢の彼方のやうにしか聞えてこないのであつた。
 草吉は大森海岸の方へ歩きだした。風の死んだ、然し冷えきつた冬空に、月が上つてゐるのだつた。当太郎は草吉の歩く方についてきた。海は満潮であつた。荒いうねりが岩壁にくだけてゐたが、沖は暗く、静かだつた。堪えがたく冷めたい巨大な潮風が吹き渡り、澄みきつた月光が、静かに流れてゐるのだつた。
「みんなくされ縁なんだ」
 当太郎は突然小さく呟いた。
「俺が生きてゐることまで、くされ縁だつたのだ……」
 彼は凍つたいしだたみの上へ坐るやうに腰をおろした。さうしてそこへうづくまつた。泣いてゐたのかも知れなかつた。長いあひだ、微動する気配もなかつた。


 それから数日の後だつた。当太郎の家族から、草吉へ宛てて、長文の電報がきた。当太郎のことで尽力願ひたいことがあるから御足労乞ふといふやうなものだつた。
 出向いてみると、母親ではなく、妹のまさ子が応待にあらはれた。まさ子は静かな微笑を浮かべつづけてゐた。まるで長閑のどかな世間話を語りだすときのやうな、暗影のない顔付だつた。まさ子の話はかうであつた。
 あの翌日当太郎は旅にでた。こんどは北国の旅だつた。越後の鯨波くじらなみといふ、日本海に面した名もない町へでかけたのだ。着いた日は海も見えない吹雪だつたといふ。便りの冒頭にそんなことが書いてあるのだ。ところがその便りを読むと、遺書としか思へぬところがあるのだつた。さういふわけで、その晩の夜行列車でまさ子が鯨波へでかけることにきまつたが、当太郎の自殺に限つて家族の手にあはないので、草吉にも同道して欲しいと言ふのであつた。その話のあひだも、まさ子は静かな微笑を浮べつづけてゐた。
「どうせ一度はやりとげてしまふんですわ。度々のことですもの。あきらめてゐるんですけど、できるだけはとめたいんです。とめてみてもはじまらないと思ふことも度々だわ。こんども、はつきり遺書つてほどぢやないんですけど、文面の感じで言ふと、落付いてのんびり温泉にでもつかつて、そのうち気がむいたとき死んでみやうかといつたやうな、そんな感じなんですの。のつぴきならない暗さなんです。莫迦々々しいやうなものですけど、一応はでかけてみずにゐられませんもの」
 とまさ子は言つた。こんな話のあひだも、うすい静かな微笑を浮かべつづけてゐるのだつた。その微笑のものうさに激しい遠さへ運ばれたやうな草吉は、話の方は殆んどうはのそらに聞きながら、暗い庭の片隅にガサ/\とゆらめいてゐる竹藪のひからびた繁みの音を心にはつきり聞いてゐたのだ。
 その夜の十一時、深夜の列車に身を託して二人は上野を出発した。上野駅には一冬のあひだ雪が訪れてくるのだつた。北国の吹雪の中を走つてきた数々の列車が、屋根に窓にかたまりついた雪をつけて並んでゐるのだ。二人をのせた深夜の車は、赤城の麓を通るころから雪の上を走りはじめ、上越連峰の真下をくぐり、土合どあい土樽つちたる石打いしうちや積雪量の最も深い雪の下をくぐりつづけて行く車だつた。深夜のために、その雪も見えなかつた。
「あたしのお友達で、うちへ遊びに来てゐるうちに、お兄さんに強姦された人が三四人はあるんですわ。べつに強姦しなくつたつて、うちあければ恋人ぐらゐにはなつてくれる人達なんですわ。お兄さんは女と無駄話をするのが巧いから、あたしのお友達が、あたしよりもお兄さんの仲良しになつてしまふんです。すつかり仲良しになつちやつておいて、順調に話をつけずに、暴力をふるつちやうのよ。女中の被害者も相当あつたわ」
 列車のなかで、まさ子は疲れきつた微笑を浮かべながら、そんな話もした。
「親父が悪いのよ。助平根性と梅毒はうちの血筋なんですわ」
 さういふ話をききながら、草吉の眠つたやうな頭には、堪えがたい想念が蠢めきまはるのであつた。まさ子の肉体は、彼の想念の中に於て、もはや着衣をまとうてはゐなかつた。厳烈な北風が鳴り狂ふ屋根の下、さうしてうねりの高い暗い海の波浪の音にとりまかれながら、肉と肉のもつれ、あるひは憎しみと獣心のもつれるであらう暗い夜の寂寥がせまつてくるのだ。俺はけだものになるのだらうと草吉は思ふのだつた。
 ――他人の自殺…………なんといふ虚しく遠い、殆んど信じることができないやうな、まるで了解もできない空虚な事実がほかにあらうか、と草吉は思ひつづけた。それに比べて蠢めきまはる肉慾の熾烈さは、容積ある熱量となつて、彼の全ての血管をそのとき満してゐることが激しく解るのであつた。日本海岸の侘びしい温泉へ急ぐことが、まさ子の青ざめた傷心を包んだ悲劇的な肉体を、ひときれの思ひやりだにない野獣となつてただ抱きしめるためにのみ、陰惨なる悲願を抱いて急ぐものとしか思はれなかつた。
 さめてゐるのか、眠つてゐるのか、朦朧として分ちがたいやうな大いなる虚しさもあつて、そこには旅愁がひろびろと漂ふてゐた。肉慾とは違つた場所に、裏日本の潮風につながるやうな暗愁が、暗く、うねりの高い海のやうにひろがり、狂ほしく疼く肉慾を悲しいものに思はせたりした。
 ――それもくされ縁だらう…………
 草吉は全てを憎みのろふやうに、また、切に軽蔑するもののやうに、心に荒々しく叫んだりした。
 翌日の早朝、宮内みやうちで乗換え、まぢかに海の見える停車場で降りた。そこが鯨波だつた。宮内あたりまでは目覚ましい積雪が視界を掩ふてゐたのだが、海へ近づくにつれて雪は次第にすくなくなり、鯨波では殆んど雪を見ることができなくなつた。荒れ走る狂暴な海風のために、雪は海に近いところへ余り積もることができない。山間地方へ運ばれて丈余の積雪となるのであつた。「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句は、ちやうどこの海に近いあたりで芭蕉の詠んだものであつた。
 宿へ着いてきてみると、ちやうど当太郎は朝食を終つて、海辺へ散歩にでかけたあとと分つた。二人も直ちに海へでた。
 苦るしいやうな曇天だつた。どすぐろい雲が海へ低く落ちてゐるのだ。もちろん佐渡は見えないし、落ちこめた雲にせばめられて、余りにも小さい荒海だつた。まるで絶望の苦痛をみせた小さなどす黒い海、暗い沖にも高いうねりがつづいてゐるし、白い牙がそんな奥手の暗い沖にもちらめくのだつた。磯を歩くたつた一つの人影があつた。それが当太郎であることは、四五町の距離があつたが、すぐに分つた。
 怒濤の音が間断なしに地響きをうつて鳴りつづくので、恐らく狂人の絶叫も一町の遠さまではとどくまいと思はれた。二人は自然に足並を速めたが、絶えず叫びたいとする衝動のせつなさのために、まさ子の足は次第に早さが加はるのだつた。足の速まるにつれて、まさ子の瞼には涙が滲んできた。たうとう堪まらなくなつて、まさ子はひとり駈けだした。お兄さんといふ小さな必死の呟きが、顔ごと吹きちぎつてしまふやうな荒々しい潮風に鋭くさらはれたのを境ひにして、跳ねかへつて砂上に置き残された足駄には見向かうともせず、一方の足駄は夢中のうちに激しくあとへ脱ぎのこしておいて、跣足はだしとなつてせつなげに走りはじめていつた。まだ充分に三四町の距離はあつたのだ。
 草吉はちらかつたまさ子の足駄を拾ひあつめ、これを片手にぶらさげて、逆にゆつくり歩きはじめた。この機会に改めて海の四方をはるばると眺めやると、苦悶のみなぎつた海の姿も、狂ひたつうねりのままに大いなる不動の静寂を宿してゐることが分るのだつた。草吉の心にも、その荒涼とした休息が、言語を絶した物憂さとなつて、静かに流れてくるのであつた。
 当太郎は草吉と別れた夜の疲労困憊した顔色よりも、むしろ血色がよかつた。
「生れて始めて日本海を眺めてゐたところなのだ」
 と、当太郎は侘びしげな微笑を浮べて、近づく草吉に言つた。
「一昨日までは吹雪がつづいたのだ。昨日一日雨が降りつづいて雪が消え、どうやら今日がはじめて何も降らない空模様なんだよ。吹雪の日もちよつと海の出口まで出掛けてみたが、吹き倒されるかと思はれたほどだつた。呼吸もできなくなるし、だいいち凄い海鳴りが耳もとに唸りまはつてゐるくせに、てんで海なんて見えやしないよ」
 宿へ帰つて湯槽からあがると、当太郎は別人のやうに活気づいた。
「こんな強烈な自然に直面すると、人為的な工作が凡そみすぼらしくなるものだね。一人の人間が生きるも死ぬもあるもんぢやないよ。人間もここの浜では砂粒とおんなじことだ。息の根をとめてみたつて、もと/\たかがこんな屑みたいな小粒かと思ふと、いい加減がつかりして、却つてほつとするんだ。とにかく自然もこれくらゐ荒々しくなると、せつないやうな救ひがあるよ」
 と、当太郎は微塵も陰の感じられない哄笑を高らかに鳴らしながら、そんな述懐もしたのだつた。
 ところが翌朝になつてみると、当太郎の姿が見えないのだ。散歩の風をして宿をでかけたことまでは分つた。方々手を廻して調べてみると柏崎から汽車に乗込んだ形跡までは辿ることができたのだ。磯づたひに柏崎まで彷徨さまよふていつたらしかつた。なんとなく落付のない一日が暮れて暗澹たる夜が落ちたが、当太郎の消息はさらになかつた。夜が落ちると、北風の悲鳴と海鳴りが、急にいちぢるしく唸りはじめてくるのだつた。
 当太郎の失踪が確定してしまふと、まさ子は却つて物憂いやうな落付をとりもどしてきた。時間の経過につれて悲観的な気分が部屋のどんな気配の中にも深まりはじめ、淵へ突落されてゆくやうな手触りのない不安がせまりはじめてくるうちに、夜がとつぷり落ちきつてしまふと、まさ子の物憂い落付は一層病的な青白さを漂はしてきた。
「今頃はどこかで冷めたくなつてゐるかも知れないわ」
 と、まさ子は再び物憂げな静かな微笑を浮かべはじめて言つた。
「どうせ一度はやつちやうのよ。今日は死なずにゐたところで、近いうちに同じことがあるんだもの、心配するだけばか/\しいわ。つくづく飽いちやつたわ! でも、どこで死んでゐるのかしら? 浪打際や雪の下ぢや、冷めたくつて可哀想だわ。意気地がないんだから、大概温い部屋の中だと思ふんだけど……」
 まさ子は炬燵こたつにあたり、本をひろげてぼんやり頁をめくつてゐたが、時々思ひだしたやうに顔をあげ、物憂い微笑をつづけながら、こんなことをまとまりなくボツ/\と言ひだすのだつた。
「棺桶のままぢや汽車につめないかしら? 焼いてもつてつたんぢや、母アさんが可哀想だわ。お兄さんはなんのために生れてきたのかしら? まるで自殺するためだわ。もがきつづけるためだわ。それに、女に惚れるためよ。浮気だわ。女から女へあんなに忙しく惚れつづけて、ほんとに好きな人は結局一人もなかつたのよ。そんなことも、考へてみると、可哀想な気もするけど、あんまり手出しが早いんで呆れちやうことが多かつたわ。冷めたくなつてると思ふと、そんなことも悲しいことのやうに思へるわ……」
 まさ子のこんな感慨に向つて、草吉の答へる言葉は全くなかつた。ただ一言、
「死んでしまつたものなら、仕方がないでせう」
 と、何かのきつかけに答へたのが、実感をもつて語り得た唯一の言葉であつたのだ。
 他人の死滅――このあまりにもかけ離れた、信じられない不可能な事実が、彼の心に異様に遠い虚しさや物憂さ、所在のなさを深めてゆくばかりであつた。同時に、その虚しさの深まりゆく一方から、狂暴な肉慾が蠢めいてくるのだ。溢れるばかりの強烈な色彩を豊富に盛りあげた淫猥な想念が、閃くやうに燃えあがつてくるのであつた。その時また一方には、暗い沖のうねりのやうな荒涼とした哀愁も間断なく流れ、それらのものが一つの塊まりとなつてもつれる時には、息苦しい虚しさとなり、一瞬喪失をよびおこすほどの大きな落胆となつたりした。
 草吉は湯槽へ逃げて、無心の時間を探さうとしてみた。ところが、まさ子の見えない場所へひそんでみても、燃えあがる想念から逃れることはできなかつた。
 一風呂浴びて部屋へ戻ると、ある種の甚だぎこちない放心状態をもつて唐突に歩みより、炬燵にもたれてぼんやりと頁をめくつてゐるまさ子の弱々しい肩の上から手をかけて、至極力のこもらない静かな動作をもつてだきすくめた。狂暴な情慾がそのとき鮮明に閃きたつのを意識したが、同時に何物かを訝かるやうな暗い澱みを心に感じた。ところが斯様に切迫した一瞬間の閃きの中に、つづいてこの薄暗く澱んだ疑心を甚しく憎もうとする、まことに強烈な祈りをも意識した。とはいへ、已にいけにえを弄ぶやうに、まさ子を荒々しくみまもつた。
 まさ子の顔はひきしまつた。単純に苦しげな表情もあらはれた。ところがやがて全ての心が失はれてしまつたやうな、まつたく空虚な疲れきつた顔付になつた。さうして、逆らはふとしなかつた。
 翌日になつて、まさ子は言つた。
「お兄さんだけで沢山だつたわ! つくづく厭だと思ふのに……」
 青白い顔であつた。さうして、諦らめきつた微笑を浮かべて呟いたのだつた。
 夕刻近い時間になつて、東京から知らせが来た。新潟市のとある旅籠はたごの一室に於て、当太郎が毒薬自殺をとげた、といふ知らせであつた。
 発見は朝のことだが、書き残した住所氏名によつて、知らせは先づ東京へ発せられ、東京から逆に廻つてきたのであつた。二人は直ちに新潟へ向つて出発した。
 疲れきつた物憂いやうな微笑が、またもやまさ子に戻つてきた。海鳴りのとどろきわたる停車場で、茫然と汽車を待つことが苦しかつた。
 汽車の速力の早まるにつれて、まさ子の顔から微笑の翳が消えていつた。※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに薄く鋭い幾本かの筋が走り、苛立ちと焦慮があらはれ、さうして沈黙をまもりはじめた。草吉の存在を意識したばかりでも、苦痛のやうな動作をあらはす時があつた。汽車の窓に顔をあてて暮れかかる雪原を眺めてゐたが、その目に涙があふれてきた。
 ――憎まれなければならぬ。さうして、呪はれることが必要だ。すべて温いものの煩しさには悪魔さへ辟易するだらう、と草吉は自分に言つた。遥かな旅愁が流れかかつてくるのであつた。
 草吉はとある停車場で地方新聞の夕刊を買ひもとめた。旅人の自殺も、事件のすくない田舎のことで、新聞は二段抜きに報じてゐた。報道の末尾まで読んでくると、悒鬱ゆううつな、宿命的な文字が彼の目を暗くした。生命とりとめる見込、としるされてゐるのだつた。
 彼はそれをまさ子に示した。まさ子はそれをどう読むだらう? 複雑な思ひはあるにしても、喜びを感じることは当然だつた。
 然し草吉の心は暗かつた。生命とりとめる見込といふ、執拗な自殺常習者に果せられた残酷な皮肉も、呪ひの如きものを満した草吉の心にとつては、当太郎の身に起つた事情ではなく、彼自らのことのやうに思はれてゐた。こんな風にしていつまで生きつづけてしまふのだらう、こんな風にして! 汽車の進むにつれて、草吉の苦汁のやうな悒鬱は深まるばかりであつた。