霓博士の廃頽

坂口安吾



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 星のキラキラとした夜更けのことで、大通りの睡り耽つたプラタナの陰には最早すつかり濡れてしまつた街燈が、硝子の箱にタラタラと綺麗な滴を流してゐたが、――シルクハットを阿弥陀に被り僕の腕に縋り乍らフラフラと千鳥足で泳いでゐた霓博士は、突然物凄い顔をして僕を邪慳に突き飛ばした。
「お前はもう帰れ!」
「しかし、だつて、先生はうまく歩けないぢやありませんか――」
「帰らんと、落第させるぞ!」
「それあ、ひどい!」
「こいつ――」
 霓博士はいきなりグヮン! と僕の膝小僧を蹴飛ばした。その途端に、僕よりも博士の方がデングリ返つて逆立ちを打ちシルクハットをいしだたみの上へ叩き落してしまつたが、四つん這ひに手をついて其れを拾ふ瞬間にも股の陰から僕の隙を鋭くヂイッと窺ひ、ヤッ! と帽子を頭へ載せて立ち上る途端に僕の脛をも一度ドカン! と蹴つ飛ばした。「ワア痛い!」「ウー、いい気味ぢやアよ!」と言ひ捨てて、博士は暗闇の奥底へ蹌踉とした影法師を蹣跚よろめかせ乍らだんだん消えて行つてしまつた。そこで僕も息を殺し、プラタナの深い繁みが落してゐる暗闇ばかり縫ふやうにして博士の跡をつけはぢめた……が、博士はものの一町も歩かぬうちに、お屋敷街の静かな通りへ曲つてゆく四つ角の処で急にヒラリと身を隠し、塀の陰からソッと首だけ突き延して疑り深く振り返つたが、忽ち僕を発見して――手当り次第に石を拾ふと僕をめがけて盲滅法に発射した。
「WAWAWAAAH! 実に憎むべき悪魔ぢやアよ……」
 斯様に博士は怒りに燃えた呟きを捨て、闘志満々として握り拳を打ち振り乍ら塀の陰から進み出たが、突然ブルン! と昆虫の羽唸りに似た鈍い音を夜空に残し睡つた街上に白い真空の一文字を引いたかと思ふと、僕の胸倉へ発止とばかりに躍りかかつて――博士は稀に見る小男であつたから、僕の頸に左手を巻き僕の腿に両脚を絡みつけて、丁度木立にしがみついた蝉の恰好になるのだが――右手でギュッと僕の鼻先をつまみあげると渾身の力を奮ひ集めてグリグリぐりぐりと捩ぢ廻したのであつた。ヤッ! 掛声諸共博士は遂ひに僕を道路へ捻り倒し、クシャクシャに僕を踏み潰して、全く其の場へのしちまふと、いい心持にシルクハットを深く阿弥陀に被り直して「エヘヘン!」と反り返つた。
「実に怪しげな奴ぢやアよ! 憎むべき存在ぢやわい、坂口アンゴウといふ奴は! 万端思ひ合はせるところ、かの地底を彷徨ふ蒼白き妖精グノーム小妖精リュタンの化身であらうか。はてさて悩ましき化け物ぢやアよ!」
 ポン! と僕のドテッ腹を小気味よく蹴り捨てて、博士はプラタナのあちら側へフラフラと消えて行つた。僕は全く人通りの杜絶えた並木路にブッ倒れて、暫しの間ひやひやした綺麗な星空を眺めてゐたが、どうやら疼痛も引き去り身動きも出来るやうになつたので、頑固に決意を堅め霓博士の邸宅へとプラタナの闇を縫ひ乍らフラついて行つた――
 何か面白い事件があるのだ、と予感がしたからであつた。あんなに猛り立つのは確かに訝しい。……最近博士は変な具合に僕を憎みはぢめたのだ。僕の顔を見さへすれば、急にグルンと眼玉を据え、忽ち闘志満々とボクシングの型に構えて、「お前は悩ましき悪漢ぢやアよ! 平和なる団欒を破壊するところの蒼白き妖精ぢやアよ! 又、メヒストフェレスの出来損ひであらうか!」――あまりただならぬ物凄さに僕もいささかドキンとして多少とも陳弁の形を取らうとする時に、「こいつ――」博士は突然ブルン! と一本の真空を描いて僕の胸に絡みつき、鼻をグリグリと捩ぢあげてしまふのだ。ところで又、学校で、博士のクラスへ出席する程僕に悲惨な境遇はなかつたのだ。このクラスでは僕のみ唯一人が学生であつたから、厭でも前列の中央へションボリ坐らねばならなかつたが――博士は教卓の陰へ危ふく沈没しさうな矮躯のくせに厭に傲然と腕を組み、実に陰険に僕をヂロリと睨まへて「学校へ出席する学生は余程低能な奴である」とか「気の利いた学生は街から街を流して歩いて学校へは出ないものだ」なぞと皮肉り乍ら、凡そあらゆる恐喝の限りを尽すのである。
「坂口アンゴウは落第ぢやアよ! わしの辞職に賭けても教授会議で主張するからエエのだアよ! 断じて落第に決つとるウよ! 生涯お前は学生ぢやアよ!」
「そ、それあ、実に横暴だ!」
「こいつ――」
 突然ブルン! と空気が破けて頭の上へ卓子が飛んできた! 右から椅子が落ちてきた! 左から靴だ! 本だ! バケツだ! 電燈が微塵にわれた! 黒板が――僕としては幸福なめぐりあわせであつたのだが黒板は幾らか重すぎるために、博士は遂ひに自ら黒板の下敷きとなり泡を激しく吹き乍らジタバタして、「タ、助けないと、アンゴウは、ラ、ラ、ラ、落々々々……ぢやアよ!」と唸つてゐるドサクサに僕は窓を蹴破つて一目散に逃げ延びるのであつた。――およそ此の如き有様が毎日の習慣であつたのだ。この不可思議な憎悪には秘められた謎が有らうといふものである。それも大体は目星がついてゐたのだが、つまり博士は、最近結婚したばかりであつたのだ。まだ半年とたちはしない近頃の話で、それも当年二十才の素敵な麗人だといふ事だから、毎晩おそく酔ひ痴れて帰る度に夫人にギュウギュウやつつけられるものらしい……
 諸君は、モルグ街の殺人事件を御存知であらうか? あれも星のキラキラとした怖いやうな夜更けであつたが、人通りの全く杜絶えたモルグ街の一劃の、まだ窓に燈火あかりの射してゐる階上の一室から突然けたたましい悲鳴が湧き起つたのだ。暫くしてシンと音の落ちた其の部屋から今度は何国の言葉とも知れない変な絶叫が聴きとれたが、そのまま再びひつそりとして全く夜の静寂に還元してしまつた。一匹の猩々しようじようが獰猛な力をもつて二人の婦人を惨殺してしまつたのだ。ところが――此の残酷な顛末を、瓦斯ガス燈の柱に攀ぢ登りプラタナの繁みに隠れて逐一窓越しに見届けてしまつた胡散な男があつたのだ。其奴が此の猩々の所有主で――そして又、そんなら其れが僕であつても全く差し支へは無かつたのだ。霓博士の邸宅に於ては、あらゆる意味に於てモルグ街の殺人事件が再演されてゐたからである。「国籍不明の絶叫」だとか「劇しく家具の散乱する物音」だとか「肉体と物体との相反撥し合ふ物音」――そして其れは明らかに一人が一人をやつつけてゐる物音、より正確なニュアンスを言へば、一人が一人にやつつけられてゐる物音、であつたのだ。――それにしても、何といふ長たらしい、収まりのない殺人事件であらうか! 流石に僕も全く退屈して、欠伸あくびまぢりに明るく騒がしい二階の窓から目を逸らしたら、屋根の上に物凄く輝いてゐる星の眼玉がギラリと僕を睨みつけた。そしたら、ガン! 突然窓が一つぺんに爆発して、ビュン! と黒い塊が部屋の中から飛び出してきた。余程空気の抜けきつてだらしのない塊とみえる、厭にふうわりと思はせぶりな抛物線を描き乍ら飛んできたが、淋しい道路へ落ちたかと思ふと其れきりピタンと吸ひついて全く動かなくなつてしまつた。今に動くかと思つて待ち構えてゐたら、頭の上のプラタナの繁みだけが少しザワザワと揺れて動いた。僕は忙しく腕組みをしてキラキラした空を見上げ、綺麗な星を幾つとなく算へる振りをし乍ら頻りに目まぐるしい反省を纏めやうとしてゐたが、それからソット近づいて覗いてみたら、其れは霓博士であつた。
「セ、センセーイ。しつかりなさい!」
「ZZZZ……」
「セ、センセーイ。しつかりなさい!」
「ZZZZ……ウ、こいつ!」
 目を見開いて僕の顔を認めると、忽ち博士は闘志満々として拳を振り振り立ち上つたが、よろめき乍ら敢なく空気を蹴飛ばして三回ばかり空転からまわりののち、ギュッと再びのびてしまつた。しかし博士は倒れても尚胸に拳闘の型を崩さず、勃々たる闘志を見せて騒がしく泡を吹いた。
「オ、オレを誘惑した蒼白き妖精ぢやアよ! ア、アンゴウが現れとるウよお! 愛するミミ子よ――う。こいつを殺してお呉れえ、よお――う」
「ワアッ!」
 僕は驚いて一度に三メートルも跳ね上つた。――
 硝子の千切れた二階の窓から一人の妙齢な麗人が――ピ、ピストルを片手に半身を現しながら、殆んど思惟を超越した英雄ナポレオンであるかの如く何の躊躇することもなく僕に向つてサッ! と狙ひをつけたからだ――
「タ、助けて呉れ! ワッ!――」
 僕は一本のプラタナを突然ブルンと飛び越えて道路の中央へ現れると、直線となつて逃げ出した。パン! パン! 一本の空気の棒がブルン! と耳もとを掠めて劇しく前方へ疾走して行つた。そして、自分の唇を食べるやうに劇しく噛み、睡つた通りを一目散に走つてゐたら、並木道のズッと先で、しつきりなしにパラパラと花火のやうな流星が降りそそいでゐた。


 性来飽くまで戦闘的な趣味を持つたミミ夫人と博士との結婚に就ては、全てが博士の責任であつて僕の憎まれる筋はない。況んや博士を誘惑し平和なる団欒を破壊するところの蒼白き妖精と呼ばるるに至つては――思ひ当る節も無いことは無い、が、公明正大な判断によれば、全ては僕の類ひ稀な「良き意志」から割り出された結果であつて、たまたま過つて毒薬を調合した医者の立場に過ぎないのだ。僕の悲惨な運命を嘆くために、事のいきさつをつぶさに公開しやう。
 僕はその頃獰猛な不眠症を伴ふところの甚だ悪性な神経衰弱に悩まされてゐた。あまつさへ様々な「不幸」が、まるで僕一人を彼等の犠牲者として目星をつけたかのやうに群をなして押寄せてきた。自動車に跳ね飛ばされて頭を石畳に打ちつけるとか、河を跳び越す途端に確かに河幅が一米ばかりグーと延びて僕を水中へ逆立ちさせてしまふとか……凡そ意地悪るな「不幸」が丁度一種の妖気のやうに靄をなして僕の身辺を漂ひ、僕の隙を窺ひ乍ら得意げに僕の鼻先で踊りを踊つたり欠伸をしたりしてゐるのが光線の具合でチャンと見えて了ふのだ。僕は彼等に乗ずる隙を見せないために堅く一室に閉ぢ籠り、無論学校も休んで、その頃丁度二ヶ月ばかりといふものは頑固に外出を拒んでゐた。
 ところが僕の学校では――僕のクラスは十名にも足らない僅かな人数であつたから、恐らくその所為であつたらうと思ふのだが、勤勉な秀才を数の中へ入れ漏してゐたのだ。一列一体に頑として学校へ出席することを憎む奴ばかりが揃つてゐた。そこで一日、学監はクラスの委員に出頭を命じて厳しく叱責を加へ「さう一列一体に休んでは、先生方が月給を受取る時に大変恥ぢた顔付をしてしまふ。斯様な精神上の犯罪に対しては、教養ある大学生の身分として最も敏感でなければならぬ筈である。一講座に一人づつ、今後漏れなく出席するやうに協定せよ」と厳重に申渡した。僕達は早速緊急クラス会議を開催し、各自の分担を籤引くじびきによつて定めることとした。結局僕の責任に決定をみた講座は霓博士の「ギリシャ哲学史」であつた。
 僕が不幸な病気のために悶々として悩んでゐたら、ある麗かなひる過ぎのこと、級長が蒼白い怖い顔付をして堅く腕を組み乍ら僕の部屋へ這入つて来た。彼は長いこと黙つてヂッと僕を睨まへ、如何にも口惜しげに菓子ばかり噛み鳴らしてゐたが――
「悲憤慷慨のいたりであるぞ!」と急に劇しい嘆きをあげた。
「ダ、ダ、誰が暗殺されたんだア! 又又、ド、何処のお嬢さんが君をそんなにも失恋させて了つたのか!」
「君が最近出席しないために事務所はひどく憤慨してゐるぞ! 僕に代りを勤めろと催促してきかんから、僕は実に迷惑してゐる!」
「ウウウ、それは大いに同情するが、何分僕は斯んなにも煩悶してゐるのだから、もう暫く勘弁してくれ――」
「ソクラテスの故事を知らんか! はた又、広瀬中佐の美談を知らんとは言はさんぞ。国家のためには一命を犠牲にしたではないか。それ故銅像にもなつとる。尊公がクラスへ出んといふ法はない――」
「ムニャ/\/\/\」
 といふわけで、高遠な哲学に疎い僕は常に論戦に破れるのであつた。翌日、僕は悲愴な決心を竪め、一命を賭して博士の講座へ出席した。それが若し共産主義の旗じるしでさへ無かつたなら、僕は円タクの運転手に僕の存在を知らしめるため、赤色の危険信号旗を頭上高らかに担つて歩いたに相違ない。
 ガランとしてひどく取り澄ました教室にたつた一人で待つてゐたら、始業の鐘も鳴り終つて已にあたりもシンと静まり返つてから、突然けたたましい跫音あしおとが教室の扉へ向けて一目散に廊下を走つて来た。扉に殺到したかと思ふと急に忙しく把手をガチンと廻したので、誰か風みたいに飛び込んで来る奴があるのかと思つたらさうでもない、顔の半分すら教室の中へ現はさないうちに、忽ち扉を再び閉ぢて今来た廊下を全速力で戻りはぢめた。余程廊下を向ふの方まで戻つてから、「さうだ、教室の中に誰か居たやうだ――」と気付いたらしい、急に立ち止る跫音がしたと思ふと、今度は猫みたいに跫音を殺し乍ら忍び足で戻つてくる気配がした。間もなくソッと把手が廻つて、ビクビクした眼の玉が怖々と中を覗きはぢめたが、僕をハッキリ認めると怪訝な顔付をして考へ乍ら、少しづつ身体を扉の内側へ擦り入れてゐるうちに、とうとう全身教室の中へ立ち現れてしまつた。言ふまでもなく霓博士である。博士は訝しげに思案し乍ら、首を振り振りどうやら教壇の椅子へまで辿りつくことができて其処へ腰を下したが、僕を様々な角度から頻りに観察して憂はしげに息を吐いた。それから、次第に意識を取り戻したと思ふうちに、今度は莫迦に偉さうに突然胸を張つて僕をウン! と睨みつけた。
「なに故に永い間休みおつたアか!」
「実は途方もない神経衰弱に苦しめられて煩悶してゐたものですから、つひ……」
 僕が苦しげに溜息をついたら、博士は改めて神経衰弱の角度から僕の憔悴した蒼白い顔を観察しはぢめたものらしい――暫くして、絞めつけられた鶏のやうな呻き声をあげた。
「プープープー、それは甚だ宜しくなアい!」
 霓博士は暗澹とした顔をヂッと僕に向け合せて、殆んど同情のあまり今にも涙の溢れ出るやうな親密な表情をした。そして若し、博士の言葉がものの十秒も遅れて発音されたなら、僕は博士が発狂したものと感違ひして、恐怖のあまり突然窓を蹴破つて一目散に逃走してゐたに相違なかつた。
「ワシも長いこと神経衰弱に悩んどるウよ」
「ア、ア。そ、そうでしたか――」
「キミは睡眠がとれるかアね?」
「駄目です! ああ、駄目々々! 実に悲惨なものです。毎夜々々ふやけた白い夜ばかりなんですが! ああ!」
「ワ、ワシも、ワシも、ワシも悲惨――う、ぶるぶるぶるう――ワ、ワシもワシも白い夜ぢやアよ!」
 博士は殆んど悲しみのあまり今にも悶絶するところであつた。そして劇しく咳上げはぢめ胸を叩いて※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがき苦しむものだから僕が慌てて介抱したら、博士は胸に痙攣を起して見ぐるしく地団太踏み乍らも、眼玉の動きや手の振り加減によつて其れとなく僕に感謝を表はすために、尚忙しく廻転しはぢめたのであつた。――斯うして僕と霓博士は、忽ち友情の頂点に達したもののやうであつた。僕達は各自の処分に就て腹蔵ない意見を披瀝し合つたり、憂はしく嘆き合つたり慰め合つたりした。そして僕が僕の身辺に垂れこめてゐる怪しげな妖気に就てつぶさに辛酸の由来を語ると、博士は又、自分は最近讃嘆すべき麗人と結婚したのであるが、その麗人はまだ至つて少女であるために自分を激しく愛撫することを知るのみで神経衰弱に対しての理解に乏しいから、自分の神経衰弱は結局、永遠に癒る時はあるまいと語り、悩ましげに溜息を吐いてゐたが、又突然深い満足の微笑をニタリニタリと合点々々頷き乍ら洩したのであつた。そして、僕は其の時ハッ! と衷心より博士は気の毒な人であると思ひ、この人を倖せにするためになら此の上さらに僕の神経衰弱を深めることも厭はないであらうと思ひ当つて、ヂッと一本の指を噛み乍ら太い溜息を洩したりして真剣に知恵をめぐらし初めたのであつた。そして――
 あの、森の酒場を突然彷彿と思ひ出したのであつた――
 広漠として殆んど涯も知れないその森の入口に一軒の酒場が立てられてゐた。森の入口はと言へば此は又広茫としたなだらかな草原で、見渡したところ八方に人々の棲む何の気配もないのだが、大いなる落日が森の奥へ消え落ちて東の平野から広い夜が這ひ上つてくると、急にフワフワと何処から現れるものともつかず実に可笑しな奴ばかりが森の酒場へ集つてくるのだ。煙草をふかし乍ら勿体ぶつて考へてばかりゐる三文詩人がゐるかと思ふと、見てゐたらいきなり彼の二つの耳から白くモクモクと煙を吹き出し嵐のやうな劇しい思索に耽りはぢめたのであつた! 凡そ常連の一人として一列一体に異体えたいの知れた奴はない。僕も昔は此の酒場の古い常連であつたのだが、神経衰弱に悩まされて以来このかたは、それも畢竟此等のてあひの醸し出す酒場の妖気に当てられた所為でもあらうかと思ひ、堅く禁酒を声明して森に足を向けなくなつた。――思へば迂闊にも忘れてゐたが、全て物事には珍重すべき「逆」といふものがあるのだ。ことに神変不可思議な神経衰弱の如き端倪すべからざる代物しろものにあつては、逆こそ唯一の手段として何を措いても試みるべき性質のものではないか――
 森の酒場へ! さうだ! 森の酒場へ!
 僕は忽ち興奮して殆んど涙を流さんばかりに感激し乍ら騒しく博士の手を握り、僕の頭に揺影した新鮮な映像に就て説明した。そして僕達は忽ち已に病魔を征服したもののやうに有頂天となつてしまひ、あの広茫とした森の酒場へ! 唱歌を高らかに歌ひながら行進したのであつた。――その日から、昼は昼、夜は夜で、明け暮れ博士は森の酒場へ入り浸り終日デレデレと酔ひ痴れずには夜の明けない尊きバッカスの下僕となつたのであつた。
 ――おお、愛しい森の娘クララよ!
 それがこの「森の酒場」の陽気な行事である通りに、博士も亦大いなる壺に水を満し其れにしたたかキュムメルを加へて妙なる青白き液体となし、酒場の娘クララの青春を讃へ乍ら我が魂を呑むが如くに呑みほす途端に、位置に多少の錯覧を起して何のためらう所もなくザッと全身に浴びて了ふのであつた。「う、ぶるぶるぶるう……」と呻き乍ら忽ち博士は博士独特の方法によつて逆立ちし背や腹へ廻つた液体を排出しやうとするのだが、それらは已に全く深く浸みついて動きがとれないものだからワッ! と叫んで七転八倒の活躍をしはぢめ、挙句の果に力も尽きてグッタリ其処らへ倒れたまま劇しく痙攣を起すのであつた。クララは博士を抱き上げて濡れた顔を親切に拭いてやり、
「博士はもう今日は一滴も呑んではいけませんの――ね、約束しませうよ。博士は三文詩人や落第生みたいな手のつけられない呑んだくれぢやありませんわね……」
「ワ、ワシは手のつけられない呑んだくれぢやアよ」
 博士は突然クララの膝から立ち上つて走り出し、アブサンの壜を抱えていきなりポン! と慌ただしげに栓を抜こうとするのであつた。
「およしなさい! それこそ動けなくなつてしまふわ。奥さんに叱られますよ!」
「ウー、違わあい! それは、嘘ぢやあよ」
 博士はてれて恥しげに縮こまり乍らモヂモヂと言訳を呟き――そしてチラリと僕に流眄ながしめを浴せて殆んど僕の死滅をも祈るかのやうな怖しい憎しみを強調してみせるのであつた。斯うして博士は僕を激しく憎み初めたのだ。


 森の酒場では、夜更けから夜明けへ移る不思議に間の抜けた懶い瞬間に、(それが毎日の習慣であつたが)一つのクライマックスが――あらゆる悦び、あらゆる悲しみ、あらゆる歎き、あらゆる苦しみの最大頂天バラキシミテであるところの旋風のやうな狂乱が、湧き起るのであつた。怪しげなてあひによつて嵐の如く吹きあげられる一日の酔気が、恰も朦朧とした靄となつて部屋の四隅に彷徨ひ流れ、莫大な面積をもつ変な爛れがチクチクと酔ひ痴れた頭を刺す刻限になると、誰といふこともない、突然誰か先づ一人が立ち上るのだ。そして――
「おお、星の星よ、樹の樹、空の空、娘の中の娘であるクララよ! 拙者の魂はお前の可愛らしい足もとへ捧げられるために、いかばかり此の一日を清らかに用意されたことであらうか!……」
 彼は出鱈目な言葉を敬々うやうやしく呟き終ると、やにわに彼の心臓へ手を差し入れて魂を掴み出さうとするのである。すると――魂がなくなつてゐる! 彼は慌てて胃嚢いぶくろを探しはじめるのであつたが、次第に苛立たしげに狼狽を深めて自分の耳を引つ張つたり舌を出して撮んだりポケットを探したり靴を脱ぐとガタガタ揺さぶつたりしてゐるうちに、皆目見当を見失つてワア――落胆して口をパクパク言はせてゐるが、遂ひに猛然として気狂ひのやうに部屋一面を走り初め、空気の中から彼の魂をつかみ出さうとして激しく虚空を掴むのであつた。
「お、おれの魂がなくなつたあ! お、俺の魂を探して呉れえ! わあわあ悲しい……」
「お、俺の魂を貸してやるから心配するな!」
 見兼ねた奴が突然目の色を変へて立ち上ると、サッと心臓へ手を差し入れるが其処にも無い――彼は慌てふためいてポケットの裏を返したり舌を撮んだりしてゐるうちに、これもワアッ! と逆上して空気に躍りかかるのであつた。
「お、俺の魂がなくなつたあ!」
「心配するな! お、俺のを貸してやる!」
「お、俺の魂を貸してやる!」
「お、俺のを……」
「お、俺のを……」
 斯うして部屋中の酔つ払ひが、一様に卓子を倒し椅子を踏みつけ右往左往湧き上つて、目の色を光らせ乍ら空気を追駈け廻るのであつた。その時まで止め損つてフラフラしてゐた酒場の親父もワアッ! と気附いて忽ち上衣をかなぐり捨て――
「シ、心配するな! オ、俺の魂を貸してやる!……」
「アラ変だわよ、お父さんの魂なんて……」
「バ、バカぬかせ!」
 ヤッ! と心臓を探したところが、これも亦見当らない――慌ててズボンのポケットを掻き廻したり靴を振つたりしてゐるうちに、彼も亦皆目見当を見失つてワアッ! と逆上しながら空気の中へ躍り込んでしまふのだ。最後に一人取り残されたバアテンダアが――
「ワアワアワア! マ待つて呉れえ! 家が潰れてしまふよう! 大変だあ、大変だあ! タ、魂を拵へるから、マ、待つて呉れえ、タ、頼むからよう!……」
 と泣き喚きながら、やにわにカクテル・シェーカアの中へ自分の身体をスッポリもぐすと、これにコニャックとジンを注ぎ込みシャルトルーズに色づけをしてクルクルくるくると廻転しはぢめるのだ。タッタッタッとグラスを並べて身体諸共躍り込み、
「デ、デ、デキタ!――」
「ワッ!」
 一群の酔つ払ひは嵐のやうに殺到して、グイグイ呑みほしてしまふと、グッタリ其の場へ悶絶して動かなくなつてしまふのだ。そしてその頃ホノボノと森の梢に夜が白みかかつてくるのであつた。――霓博士が此処の常連に加はつて以来、この廻転の速力が一段と目まぐるしい物になつたと言はれてゐる。

 ところが或日のことであつた。その夜は僕が先づ真つ先に立ち上つて、クララに魂を捧げやうとしたのであつた。
「おお、星の星、樹の樹、空の空!」
「お止しなさい! そして貴方なんか森の奥底へ消えてしまふといいんだわ。あたしは貴方のやうなネヂけた人の魂なんか欲しくありませんからね……」
「ナ、なぜだ?」
「貴方は可哀さうな博士を虐めてばかりゐるぢやありませんか! ごらんなさい! 博士のお身は傷だらけよ。可哀さうな、お気の毒な博士! どんなに苦しんでいらつしやることでせう! ねえ、皆さん。それはみんなアンゴが悪いのですよ――」
「ウ、嘘をつけ! それあ博士のオクサンが少しばかり腕つぷしが強すぎるんだい! オ、俺なんぞの知つたことぢやアないんだぞ!」
「お黙りなさい! あんたが博士を庇つてあげないのが悪いのよ! おほかた不勉強で落第しさうだから、博士のオクサマにおべつか使つて通信簿の点数をゴマカして貰ほうつて言ふんでしよ」
「ウ、嘘だい! こう見えても俺なんざ、秀才の秀才――」
「ウ、うそつき!」
 いきなりブルン! 黒い小さな塊が突然僕に絡みついたかと思ふと、僕の鼻をギュッと握つてグリグリ捩ぢ廻した。霓博士だ! そして僕をドカンと其場へ捻り倒してしまふと博士はガンガン所きらわず踏み潰しはぢめた。
「ブラボオ! ブラボオ! アンゴをやつつけろ!……」
 何といふことだ。一座の酔ひどれ共は急に僕を憎み初めて立ち上ると、或者は僕の頭上に酒を浴せかけたり、又或者は珍しげに僕の鼻を撮んでみたり蹴つ飛ばしたりした。僕は死物狂ひに憤慨しながらジタバタしてゐたが、つひにエイッ! と立ち上ることが出来たら、其のハヅミに博士は激しく跳ね飛ばされて壁にしたたか脳天を打ちつけた。そしてフラフラと悶絶するのをクララは飛ぶやうに走り寄つて抱き上げ、
「しつかりなさい! 博士、ハカセッたら。いいわ、いいわ、博士、きつと仕返しをなさるといいわ。アンゴを落第させちまひなさいよ。ねえ、ねえ、ねえ……」
「さうだ、さうだ、全くだ! あいつを落第させちまへ!」
「チ、畜生! 分つたぞ! 君達はみんな実に卑怯千万だぞ! つまり君達はみんな日頃細君にやつつけられてゐるものだから不当にも博士に同情して僕ばかり憎むものに相違ない。君達は君達の卑劣な鬱憤を何の咎めらるべき筋もない僕によつて晴さうといふのだ。しかも此の気の毒な神経衰弱病者である僕の運命を、君達の卑劣な満足によつて更に救ひ難い悩みへまで推し進めやうとしてゐる。ことに又クララの如きチンピラ娘にあつては実に単なるヒステリイの発作によるセンチメンタリズムによつて僕を憎悪するもので、その軽卒な雷同性たるや実に憎んでもあきたりない!」
「黙れ/\/\/\――」
 ブルン! 突然空気が幾つにも千切れて、沢山の洋酒の壜が僕を目掛けて降つてきた。僕は全く困惑して部屋の片隅へ頭を抱えて縮こまつてしまつたら、ドカドカと一隊の酔ひどれ共が押寄せて来て僕を忽ち取り囲み、壁の中へめり込むくらひポカポカ僕を蹴つ飛ばしてしまつた。連中が僕をいい加減圧花おしばなみたいに蹴倒してそれぞれの椅子へ引き上げる頃、霓博士はやうやく意識を恢復した。そして、クララの胸に抱かれ乍ら手厚な介抱を受けてゐる幸福な自分の姿に気付くと、博士は忽ち感激して興奮のあまりつひフラフラと再び悶絶しさうに蹣跚よろめき乍ら立ち上つたが、辛うじて立ち直ると――
「ク、クララよ、おお、星の星の流星――森の樹樹樹、うう、タ、魂、魂々々、おお用意せられたる、タ、タマシヒ……ぢやアよ!」
「まあ嬉しい! あたしどんなに博士の気高い魂を頂きたいと思つてゐたことか知れませんわ! ほんとうに、こんな嬉しい日があたしの思ひ出の中にあつたでせうかしら……」
「タタタタ、魂を……」
 博士は泡を喰つて目を白黒に廻転させ、上衣を脱ぎ捨てて心臓を――身体の八方を忙しく探してゐたが、やにわにポケットへ首を捩ぢ込むと足をバタバタふるわせながら
「タタタ魂がなくなつたアよ! タタ魂ぢやアよ! タタタ魂……」
 そして博士は握り拳を大きく打ち振りながら合点合点合点と慌ただしげに宙返りを打ち初めたのであつたが、見る見るうちに速力を増し、やがて凄じい唸りを生じて部屋の四方に激しい煽りを吹き上げたかと思ふと、殆んどプロペラのやうに目にも留まらぬ快速力で廻転してゐたのであつた。
「オオオ、オレの魂を貸してやる!」
 余りの激しさに気を取られて、此の時までは流石に言葉も挿しはさめずに傍観してゐた一団の酔つ払ひは、突然一度に湧きあがつて「タタ魂を……」と絶叫しながら一様に霓博士の煽りを喰ひ、これらも亦プロペラのやうに廻転しはぢめたのであつた。――これ等数多あまたの目には映らぬ酔ひどれ共の透明な渦巻を差し挟んで僕とクララはお互の姿をハッキリと睨み合ふことが出来たが、僕は突然クラクラと込上げてきた怒りと絶望に目を眩ませ、やにわにジョッキーを振り上げたかと思ふ途端にヤッ! 気合諸共クララの頭から一杯の水をザッと鮮やかに浴せかけた。そしてクララが「卑怯者――」と口惜しげに拳を突き出して飛び掛らうとしてゐるうちに、僕は忽ち扉を蹴倒して暗闇の戸外へ転がり出で、
 ――オ、俺は失恋してしまつた!
 ――オ、俺の悲しみは太陽をも黒く冷たくするであらう!
 ――オ、俺は自殺するかも知れないんだぞ! 助けて呉れえ! お願ひだ!
 と悲しげな声をふり絞つて絶叫しながら、森の入口の広茫とした草原を弾丸のやうに走つてゐたら、ズッと向ふの東の空が急にボンヤリ一部分だけ白くなつた。


 それから丁度五日目のことであつた。
 その五日間といふものは悶々として寝床の中にもぐつたまま夜昼の分ちなく眼蓋だけを開けたり閉ぢたりしてゐたのだが、だしぬけに鼻をグリグリ捩ぢ上げる奴があるので、さてはてつきり霓博士が襲来したに違ひないとあきらめ乍ら目を開けたら思ひがけない一人の妙齢な麗人が――ピストルを突きつけて僕を鋭く睨んでゐた。慌てていきなり飛び起きて狼狽うろたへながら左や右を見廻したら、ばかにお天気の良い蒼空が光つてゐた。
「あたしの夫を返しなさい!」
「ニ、ニヂ博士ですか? ボ、僕が誘惑したわけでは決して……それは、つまり、たまたま毒薬を調合したところの医学博士――」
「言訳をなさると打ちますよ。すぐに博士を連れ戻していらつしやい!」
「僕は、しかし、酒場の娘と喧嘩しちやつたものですから、どうも何だか行きにくいな。それに、第一無駄なんですよ。今のところ博士はすつかりグデグデ酔ひつぶれて、おお、星の星のクララ……」
「そんなことはありません!」
「いいえ、さうです! 第一――」
「いいえ、そんなことはありません!」
「いいえ、さうですとも! 第一それは奥さんもとても美くしい方だけど、酒場のクララと来たひには、それはそれは美――ワアッ! いけねえ!」
 僕は慌てて口を押へて跳ねあがると、一つぺんに二階の窓からブルン! と一跳びに道のプラタナも飛び越えてしまひ、並木路の丁度真ん中へ落ちるが早いか一目散に逃げ出した。パン! パン! 一本の空気の棒が忽ち僕を追ひ抜いて真直向ふへ走つて行つた。
「タ、助けて呉れ! アブアブアブ……」
 一瞬にして町を過ぎ去り、広々とした草原へ零れた豆粒のやうに現れると、忽ちそれをも東から西へただ一線に貫いて――さうした忙しい合間にも広漠たる森から草原へかかつてゐるあの莫大な蒼空を薄くチラチラと目に映したが――
 やうやく酒場の丸木小屋へ辿りつくとグワン! と扉を蹴破つて――
「タ、助けて呉れ! パンパンパンだ! 酒だ酒だ、酒を呉れえ!」
 壁に作られた戸棚の上から、盲滅法にしがみついた一本の壜を抱きしめると、力をこめて栓を抜きあげ口の中へ捩ぢ込もうとした。そしたら、
 ブルン! 突然黒い塊がいきなり僕の胸倉に絡みついて、グリグリぐりぐりと鼻を撮んで捻りあげた。疲労困憊して劇しく息を切らしてゐた僕は忽ち喉を塞いで、クククククと呻いてゐるうちにドカン! と倒されクシャクシャに踏み潰されてしまつた。
「こいつ又――現れおつたアか! 不愉快なる奴ぢやアよ!」
 博士は僕を部屋の片隅へ蹴飛ばし蹴飛ばし転がしやつて遂ひに隅つこへ丸めてしまふと、悦しげにニタニタと頷き乍らクララの方へ帰らうとした――が、急に
 PAH!
 鋭い絶叫をわづかに一つ置き残したかと思ふと、もはや遥かな抛物線を遠い草原の彼方へまで描き乍ら、窓を一線に貫き通しチラチラと麗らかな光線を浴びて、まつしぐらに飛び去つて行く有様が見えた。みんなドキンとして振り返つたら、輪廓の綺麗な年若い麗人が入口にスラリと佇んで内側を厳しく睨んでゐたが、一発ズドンと天井へブッ放すやいなや、これもサッと草原の彼方へ博士を追ふて飛び去つてしまつた。
 長いこと、みんな腕組みをして頻りに何か考へてゐるフリをしてゐたが、やがてソッと窓から首を突き出して眺めてみたら、豆粒くらいにしか見えない遠い遠い草原の上で、ミミ夫人に掴まへられた霓博士は蹴られたり殴られたり土肌へツンのめされたりしてゐた。
「おお、何といふことだ!」
 さうだ、ここで霓博士を助けなければ男の一分が廃つてしまふ、男の一分よりも何よりもクララの手前として顔が立たないことにならう。そして若し霓博士を救ひ出すことが出来たなら、クララはどんなにも僕を尊敬して「まあ、騎士のやうななんて好ましい青年でせう!」と言ひ乍ら僕の胸に真紅な薔薇を挿して呉れるに違ひない! さう思ふと僕は忽ちクラクラと逆上して、
「おお、僕の愛する気の毒な博士!」
 と叫び乍ら幾度も幾度もつまずいたあげくに、やうやく目指した現場へ辿りつくことが出来たら、博士は尚もモンドリ打つて跳ね飛ばされたり叩きのめされたりしてゐた。そして此の緊張した一場の光景は、いかにも遥々した草原の上に柔い目映まばゆい光を一杯に浴び乍ら行はれてゐて、見てゐると、見れば見る程実に愉しげな歓喜に溢れた遊戯のやうに思はれてしまふのであつた。僕は面白く又愉快になつて、パチパチと手を打ちながらゲラゲラ笑ひ出して見てゐたが、そしたら――
 さうだ、日頃の仇を晴らすのは此の機会を措いては滅多にあるまい、と突然僕の考へが変つたので、僕は早速ミミ夫人に加勢していきなり博士に飛び掛ると、どやしたり蹴飛ばしたり頸筋をゴシゴシ絞めつけたりした。博士は二人に散々やつつけられて悲鳴を上げる根気も失つてゐたが、辛うじて僕達の手を振り切ると這這ほうほうていで死者狂ひに丸まり乍ら、ひた走りに森の中へ駈け込んで行つた。
「待て!」
 ミミ夫人は厳しくさう叫んだが、その実それは体裁だけで内心悉く鬱憤を晴らしたものらしい、別に追駈けもせずヂッとうしろを見送つてゐたが――突然僕に気が付くと忽ち帯の間からピストルを取り出して、パン!
「ワアッ! タ、助けて呉れ!」
 僕も亦一条の走跡を白く鋭く後へ残して森の中へひた走りに躍り込んでしまつた。
 僕は森の奥深くの、小高い丘の頂上へフラフラとして行き着くことが出来たので、ホッと大きな息を漏して何もかも忘れたやうな気持になつたら、実に大きな青い空が言ひ様もなく静かなものに見えたのであつた。そこで僕が長々と欠伸をしてヒョイと其の時気が付いたら、すぐ目の下の大きな松の木の根つこに、その松の木の洞穴の中へ頭をゴシゴシ押し隠してまんまるく小さく縮こまつた霓博士がブルブル顫えてゐたのだつた。それを見ると突然僕は悲しくなつて、恋に悩む人間といふものは、そして又わけの分らない苦しみや歎きや怖れや憧れを持つ人間といふものは本当に気の毒なものであると思ひやられ、なんだかメキメキ眼蓋が濡れて熱く重たくなつてきたので堪らなくなつてしまひ、
「センセーイ! もう大丈夫ですよ! 奥さんはもう行つちやいました。それから先生、さつきの事は勘忍して下さい。あれはつひ、ハヅミがついてドカドカやつちやつたんですけど、シンから先生が憎らしかつたわけではないのですから――」
 博士は突然首を擡げて振り返ると忽ち闘志満々としてボクシングの型に構え、ブルン! 鋭い真空の一文字を引いた途端に素早く僕の胸倉に絡みついたのだが、渾身の力を奮ひ集めて鼻をグリグリ捻りあげるとヤッ! 僕を山の頂上へ捩ぢ伏せてグタグタにまで踏み潰し蹴倒して紙屑みたいにのしてしまつた。そして晴々と青空を見上げ、如何にも穢はしいもののやうに僕の残骸をポン! と小気味よく蹴り捨てると、
「厭らしい奴ぢやアよ!」――
 苦々しげに呟きを残し、博士は改めて服装を調べ直すと、ひつそりとの死んだ真昼間の森を麓へ、あの丸太小屋の森の酒場へと目指して――意気揚々と降つて行つた。