





黒谷村
坂口安吾
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矢車凡太が黒谷村を訪れたのは、蜂谷龍然に特殊な友情や、また特別な興味を懐いてゐたためでは無論ない。まして、黒谷村自体に就ては、その出発に先立つて、已に絶望に近いものを感じてゐたのだが、それでも東京に留まるよりはましであると計算して、厭々ながら長い夜汽車に揺られて来たのだ。
夏が来て、あのうらうらと浮く綿のやうな雲を見ると、山岳へ浸らずにはゐられない放浪癖を、凡太は所有してゐた。あの白い雲がうらうらと浮いて、
龍然は、学生時代にも、凡太とそれ程親密な間柄ではなかつた。ただ、二人共ほかに親しい級友を持たなかつたので、かなり親しい友達のつもりで、時々往復し合つてゐた。結局卒業してしまふまで、「あります」「あなた」といふやうな敬語を用ひ、相手がうるさくて堪へられない時や酒のうへなぞでは、別段怪しみもせずぞんざいな言葉を、その時だけは極めて自然に使ひ合つたりしてゐた。龍然はとりわけて才のある男でもなく、一見さう見える通り、実際もごく平凡な好人物であるやうにしか考へられなかつた。取柄といへば、意地の悪いところをまるで持たないことと、田舎者じみてゐるくせに、都会的な感覚なり見解なりを、平凡ではあるがしかし本質的に持ち合せてゐたことだつた。龍然は父母もなく妻もない一人者で、黒谷村の
翌朝山間の小駅に下車して、ぽろぽろと
人の気配のさらに無い山路に尨大な孤独を噛みしめながら、谷風に送られて
山路へかかつてものの一里と行かぬ頃から、凡太は已にそんな泥酔状態に落ちてゐたが、不健康な色をした龍然は、しかし馴れてゐると見えて、初めからたどたどしい足取りのまま乱れを見せないのであつた。
二人が黒谷村の峠まで辿りついたとき、もう黄昏も深かつた。熊笹の中から頸だけを延して顧れば、今来た路は幾重もの山波となつて、濃い紫にとつぷりと溶けてゆくのが見えた。山に遠く
「和尚さんはいい人がおありですからおすすめはしませんが、客人はぜひ今夜はこちらへお宿りなさい」
なぞと、あたりまへの挨拶のやうに述べるのであつた。
「来るさうさうから余り立派な記念でもないから、今夜だけは寺でねる方がいいさ」
龍然は洒脱な物腰で、彼のためにそんな断りを述べた。女達のさわがしい二の句を一つ残さず断ち切つて、巧みに話題をそらしてしまふ程それは苦労人らしい物腰で、女達は「和尚さんの意地わる……」なぞと言ひながら、龍然の口ぶりを面白がつて笑ひ崩れてしまつた。二人は賑やかな見送りを受けて居酒屋を立ち去つたのだ。それは実際賑やかな見送りと言ふべきであつた。なぜならば、其処にだけ一塊の喚声が群れてゐて、それをすつぽりと包んだ、一面の暗闇はただしんしんとするばかり、その喚声のすぐ周囲でさへ、耳を澄ませども見えるもの聴えるものは無いからだつた。やがて暫くして、深い谷音ばかりはつきり耳についてきた。――これは、凡太が黒谷村へ足を踏み入れた第一日の印象だつた。居ついてみると、一見平凡な黒谷村も、変に味はひのある村だつた。
黒谷村は猥褻な村であつた。気楽な程のんびりとした色情が、――さう思つて見れば、蒼空にも森林にも草原にも、だらしなく思はれる程間の抜けた明るさを漂はしてゐた。凡太は一日、山の段々畑をいくつか越えて何気なく足を速めて逍遥してゐると、穂の間から上半身をあらわした若い農婦がだしぬけに顔をあげて、健康な(HALLOO!)を彼の背中へ叫びかけた。凡太は丁度山嶺に片足を踏みかけてゐたので、ふりかへると遠くはるかな風景が、その中へ農婦の姿をも点描して深々と目にしみてきた。彼は壮快を感じて元気一杯な(HALLOO!)を返しながら山の裏側へ消え込んでしまつたが、考へてみると一つ足りない気持があつた。その夜、その話を龍然にしてみると、果せるかな、これは夜這ひへ誘ふ黒谷村一般の招辞であるといふのだつた。さう言はれてみれば、ある日のこと、尾根伝ひに国境へ通ふ風景の良い路で、
黒谷村逗留の第一夜、龍然から与へられた橄欖寺の離れにおさまつてみると、その瞬間から已に借物といふ感じはせずに、いつか昔棲み古したことのある自分の家といふ気楽さだけが意味もなく感ぜられてならなかつた。寺には龍然のほかに使用人も無かつたし、その龍然とも必要のない限りは顔を合はさずにも暮すことが出来たし、顔を合したところで、龍然の方では凡太を別に客らしい意識では待遇もしなかつたので、食事なぞも好きな時に台所へ探しに行ければそれでよかつた。時々むしろ龍然の方で、彼が遊びに訪れたやうな顔付で凡太の離れを訪問するが、実際それは拵へ物でも謙譲でも、まして卑屈でもなく、第一凡太にしてからがその時は龍然の方が遠路の客人であるとしか考へられないのであつた。二人は寝転んだまま何の話も交へないで、ただ漫然と二時間三時間を過すこともあつたが、出発する前に予想したやうな退屈や気づまりは全く感ずることも無かつたし、そのうちに二人とも睡り込んで、やがて一方が目を醒して散歩に出てしまふと、間もなく一方も目を醒して、がらんとした寺の空虚を噛みしめながら、初めから自分一人で其処に寝てゐたやうに考へながら自分の営みに立ち去つてしまふ。この気楽さから身体を運び出して漠然と黒谷村を彷徨すれば、村がいかにものんびりと胸に滲みるのは尤もな話であつたが、それにも増して、本来橄欖寺そのものの内側にも淫靡な靄が漂ふてゐたから……。それは毎晩のことだつた、気のせいか、多少は音を憚かる
いつとはなく盆に近い季節となつて、夜毎に盆踊りの太鼓が山の上に鳴りつづいてゐた。盆とはいへ、この辺りでは八月にそれを行ふ習慣であるから、もう夏もすつかり
「矢車さん矢車さん……」
はぢめはさういふ声を幻聴のやうに凡太はきき流してゐたが、するとすぐ、「ごま化しながらお経をあげてゐますこと」といふ声が、個性を帯びてはつきり背筋に触れてきた。凡太は愕然として振り返ると、本堂の丸柱と並んで、大柄な女が一人うつすらと立ちはだかつてゐた。凡太はあまり不思議なことなので……いや、不思議とはいふもののこれは情景の説明ではない、凡太の意識内容の説明であるが、この
「あなたもいくらか気狂ひですね。龍然もやはり気狂ひです……」
由良のぺらぺらと流れる癇高い声を聴きながら、彼はしかしこのふくよかな肉附を持つた女が、粗雑な言葉とは全く逆に妙に古風な
「今晩は。はぢめてお目にかかりましたね」
「今晩は。はぢめてお目にかかりました」
「龍然は留守でせう――?」
「今夜は帰るまいと思ひます。御存知ですか?」
「出掛けるとき、さう教へに来ましたから――」
「ああ成程――」と凡太は当然なことに暫く
「龍然は
「さうですね。そのやうに見えますね。僕は友達といふのは名ばかりで、ろくすつぽ話もしたことがないのですし、同じ寺に寝起きしてゐても二三日顔を合はさずに暮すことさへよくあるくらいですから、あの男に就ては実際のところ何も知つてゐないのです」
「龍然は、でも、あんまり悧巧な男ではありませんわね。冷たくて冷たくて、時々ぼんやり何か考へごとをしてゐてやり切れないのです。妾を可愛がるのもいいけれど、とにかくさういふ気持を自分で反省するとき淋しい自己嫌悪を感じるのは苦痛だから、可愛くても可愛いいというふうに思ふのは厭だ厭だと言ふのですわ。それでゐて気狂ひのやうに劇しく妾を抱くのです。龍然の淋しい気持は妾にも大概分りますけれど、表へ出す冷たさが妾にはあき足らないのです。龍然は莫迦野郎ですわね。龍然はほんとうに莫迦野郎ですから、妾は別れる気持になりました――」
「ははあ……それは今朝のことですか――?」
「いいえ、ずつと昔からですわ。でも、ほんとうに決めたのはたつた今しがたなんですわ。村に女衒が来てゐるのです。三月と盆は女衒の書き入れ時ですから。妾はずつと昔にも一度女衒に連れられて村を出たことがありました。お分りですか? 凡太さん……妾は今も女衒と一緒に寝てきました。あははははは……嘘嘘嘘、一緒に酒をのんできただけ……」
由良は床板に強く支へてゐた両腕をするすると滑らして、横に倒れると一本のだらしない棒となつてねてしまつた。
「女衒は上玉だつて大悦びでしたわ。妾はそれを教へてあげに此処へ来たのです――」
「僕にですか――?」
「さう。誰にだつて教へてやりたいから、あなたにも教へてやりに」
由良は顔を拾ふやうに持ち上げたが、又それを両腕の中へすつぽりと落して、もう拾ひあげやうとはしなかつた。かなり深く酔ひ痴れてゐるのだ。そこで凡太はぢつと腕を拱いて、――実は途方もない別なことを、一心に考へ初めたのであつた。いや、別なことを考へはぢめたと言ふよりは、何も考へない思惟の中絶へ迷ひ込んだと呼ぶ方がむしろこの際又しても正しいのであつた。凡太はこの数年来、常に現前の事実には充分に浸ることが出来なくて、全てが追憶となつてから、その時の幻を描き出してのち、はぢめて微細な情緒や、或ひは場面全体の裏面を流れてゐた漠然たる雰囲気のごときものを、面白く感じ出す不運な習慣に犯されてゐた。ありていに言へば、この男は如何なる面白い瞬間にも、それに直面してゐる限りは常に退屈しきつてゐて、今のことではない、その昔経験した一場面の雰囲気へ、
由良の肢体はだらしなく床板の上に寝そべつてゐたが、凡太の丹誠によるほのかな燈明のおかげで、幸ひそれは人魚のやうに可憐に縹渺として童話風な恋情をそそつた。凡太は腕を拱いて空間を凝視してゐたが、やがて波のじつとりと落ちた広い広い海原に、倉皇と
「踊りの太鼓がきこえますわね……」
「さう、トントントトトトトントン……と、はあ、きこえる」
「行つてみませうか」
由良はふらふら立ち上つて、燈明の方をぢつと見てゐたが、がつかりして笑ひ出した。
「ほら、燈明をぢつと凝視めてごらんなさい。くすぐつたいやうに、ちろちろ気どつて揺れはぢめる……気のせいばかりぢや、ありませんわね。厭な奴。ああああ――」
歩き出してみると、凡太の杞憂したほど由良の歩行は乱れてゐなかつた。風は死んでゐたが、夜気そのものが冷え冷えと膚に迫つて、その度に冥想すべき何等かの思考力を植え落してゆくもののやうな、沈鬱な
円舞をとりまいてゐる観衆の円陣を、さらに二人は遠くから黙々と一廻りした。このとき、しかし凡太の浸つてゐた静かな雰囲気は、さう長くは続かなかつた。――暗い群衆の中頃から一つの頭がゆらゆらと揺れて出て、由良の背中を追ふて来たが、「姐さん、一寸お願ひが……、」そんな低い声を耳にしたまま、凡太はしかし一人五六歩ばかりなほ前方へ歩きすぎて静かに振り向いた。それは、角帯に頭を商人風に当つた、一見どこやらの番頭といふ風態の小男であつた。二人の男女は早口に何か二三受け答へしてゐたかと思ふうちに、由良は間もなくさつさと男から離れて凡太の方へ近寄つて来たが、その顔には気の抜けきつて感情といふもののまるで無い白さを漂はして、ぢつと凡太と向き合はせた。
「さよなら……」
「さよなら」
「――あいつ、さつきお話した女衒……」
「女衒?――」
その時由良はもう振り向いて――背中を彼等二人の方へ向けながら、一人ぶらぶら群衆から離れて空を見ながらぶらついてゐる女衒の方へ、歩き出してゐた。見てゐると、二人は何事かひそひそ相談してゐたが、やがて女衒はまだその方をぼんやり見つめてゐる凡太の姿に気づいて、遠くから会釈した。凡太はひどく狼狽してそそくさ会釈を返したが、気まづくなつたので、一人ぽくぽくと又一度かなり大きい円陣を、時々立ち止つては中の踊りを覗き込みながら歩いた。それから、思ひ切つて金比羅山を振り棄てると、いま登つてきた坂道をすたすたと黒い黒い塊の中へ
「もう若い者はいつこうに踊りに夢中でして――」と、老婆は黒谷村に不似合な世馴れた笑ひを浮べながら、この村では出稼ぎの女工達も踊りたいばかりに盆を待ちかねて帰省するが、なぞと語つた。凡太はむやみに同感して深くうなづいてみせた。此処へ来て酒を掬むに、あの甘美な哀愁はなほ身辺を立ち去ることなく低く四方に蹌踉し、むしろその香わしい震幅を深くするやうに感ぜられた。彼はこの旅に出て
翌日龍然は車に送られて帰つて来た。日の落ちるまで顔を合はす機会は無かつたが、一風呂浴びて夕膳の卓に向き合ふと、ポツポツ語り出した龍然の話は、山奥に目新しいトピックであつた。龍然の招かれた先の豪家では、彼のかなり親密な友達であつた其処の次男は、急死とは言ひ乍ら、病死ではなくて、実は催眠薬による自殺であつた。県内でも屈指の豪農であつたから、新聞社などはいち早く口止がきいてゐて、龍然に与へられた多額な布施の如きにも、それに対する心持が含まれてゐた。その男は多少は学問もした人で、数年間
「――実際大きな建物といふ奴は不思議な迫力を持つものでね。僕なんぞもこのガランとした寺にぢつと坐つてゐると、その男と同じやうな漠然とした不安を、やはりしみじみ思ひ当ることが時々あるやうだね。単に建物だとかその暗い壁だとか、そんな物に変にがつちりした存在を感じて敗北を噛みしめるばかりではない、自分が現に存在し、又寺の一隅に坐つてゐることに対して無意味を痛感し、痛感するばかりでなく、そのことがすでに又無意味に思はれる程何かがつかりした倦怠を感じ、それと一緒に自分の存在がいつぺんに信じられなくなつてくる。それが、自分の心の中でさう思ひ当るばかりでない、自分よりももつと強烈な生命力を持つこの建物の意志の中に、妙にみぢめに比較されてさういふ倦怠の気配を感得するから、実に実にやり切れない心細さに襲はれてしまふ……」
「それはさうだらうね。君の場合には棲む場所が直接この強烈な建築だから、だからつまり建築を対象にしてさう感じてしまふのだらうけど、僕の生活には建築なんぞ大した関係を持たないから、何か漠然とした一つの全体を対象として……」
凡太は同感してそんなことを言ひかけたが、議論の対象そのものが茫漠として所詮は一生の十字架であり、口に乗せて弄ぶのも無役であると思はれたので、さつさと口を噤んで沈黙してしまつた。それに凡太は、由来自分の虚無思想に対しては甚だ謙虚な心を懐いてゐて、自分はとうてい虚無に殉ずる底の深遠な実際を味得しうる人物ではない、自分は浅薄な男で、本来楽天主義者でもなければ虚無主義者でもなく、常に何事も突き詰めることを避けるところのいはば一種の気分的人生ファンで、取柄といへばその自分の人生に対して甚だ冷淡そのものであること、それくらいなものであらうとあきらめをつけてゐたから、人生を理論で争ふ意志は毛頭持たなかつたばかりでなく、他人の深い虚無感に対しては、常にこれを深刻なる先輩として、実際まぢめな意味で若干の敬意を払ふことにしてゐた。彼はただ、彼自身の立場としては全てを漠然と感じればそれでよい、それを単に言葉に表はして憂鬱なる
「いつたい、君が大いに啖呵を切つたといふのは、ほんとうの話かね?」
「それはほんとうの話さ。一座の連中をすつかり慄へ上らして来たよ。尤も腹の中では、僕は大いにいたづらな気持だつたがね……」
と、龍然は例の至極あたりまへな顔付に、それでも少し苦笑を浮べて、あああああ……と奇声をたてながら実にだらしなく
ところがその翌日、意外千万な出来事が起つた。事件そのものが甚だ意外であつたばかりでなく、事件の原因をなしたところのものが実に奇想天外――いや、これも亦凡太の意識内に於ける不屈な好奇心の説明であるが、とにかく奇抜千万であつたために、凡太はひどく奇異を感じた。即ち、龍然は通夜の席上で実際憤然として悲憤慷慨の演説を試みたばかりではない、しかも屡々過激な言辞を弄して資本主義ならびにブルヂョアを攻撃したといふのである。勿論それは、相手が県内でも有数な勢力家であるために、針小棒大に
凡太は一体龍然の学識には相当の敬意を払つてゐたのだつた。それは彼が初めてこの寺へ第一歩を踏み入れた夜のこと、龍然はその書院にかなり
其の後、もう来ないのかと思つてゐた女は、相変らず毎夜龍然を訪れて来た。どういふ変化があるだらうと聴耳をたててゐても、別に変つたこともない、離れにぢつと瞑目して机に凭れて頬杖をついてゐると、すぐ目の先にある小さな古沼、それを越してすぐさま丘の上にある墓地、その又上にひつそりとしてゐる山の腹、都合三段の静寂な気配がそれぞれのニュアンスを持つて、もうすつかり闌けてしまつた初秋の香りを運んだ。なぜだか、身体がやはり一つの気配となつて朦朧とさまよつてゐるやうな、爽やかではあるが一種ぢつとりと落ちついた重い侘びしさが、物体に障碍されることなく一面に流れ漂ふてゐた。いはば、まるで現実とは別種な感覚の世界を創造するもののやうに、目を瞑ると、甘い哀愁の世界がひろびろと窓を開いて通じてゐた。それは「無」――実際は、無といふにはあまりにも
由良とも友達になつてゐるのだから、二人打ち連れて遊びにおしかけて来はしないかと、凡太はそれとなく待ち構えてゐたが、別に来るやうなこともない、龍然はあの夜のことを知らないのであらうかとある日訊ねてみたところが、ああ、さうさう、さういふ話をきいてゐた、君によろしく伝へてくれと言ふことだつた、いよいよ俺達も別れることに決つてね、なぞと落ついた返事だつた。
「あの女は別に女衒と一緒に東京へ行かなくとも良いのだから、君さへ邪魔でなかつたら、君の帰る時あれも一緒に連れてつて貰ひたいと言つてゐたよ。東京に知り合があると思へば心強く暮せることだらうからね。ぜひ一緒に連れて帰つて今後も力になつて呉れたまへ。いづれ今晩でも改めておひき合せしやうから。まつたく僕もあの女と別れることになつてせいせいしたよ」
龍然はそんなことを言ひながら、無心に鼻の油を拭いてゐたりした。そのくせ、やはり女と別れることが、別れ切れない心持もあるのであつた。丁度その頃のことであつたらう、凡太と龍然はある黄昏の杉並木を金比羅大明神の方へ散歩にぶらついてゐたが、嶮しく高い坂道の途中で、偶然上の方からただ一人下りてくる例の女衒に擦れ違つたのであつた。女衒は手に短い杉の小枝を携へてゐて、それを弄びながら急ぎ足ですたすた下りていつたのだが――その時凡太は、それは恐らくその時の結果から推してさう思ひ当るのかも知れないけれど、もし自分が龍然の身の上で、そして今自分一人でこんな山奥に女衒と擦れ違つたとしたならば、或ひは自分は女衒を殺害して谷底へ埋めてしまふかも知れない……と、そんな風な空想をたしかその時めぐらしたやうに思ひ出されるのであつた。しかし龍然はまるで何でもない顔付で、女衒の存在にさへ気付かぬやうな物腰でやり過してしまつたから、凡太はほつとして、これは龍然は女衒の顔を知らぬのかしら等と考へながら上の杉並木を洩れる空模様を仰いで息を吸つた。するといきなり耳もとで、さつと風を切る激しい音がした。
「女衒はよくないぞ!」
龍然は坂の下をぢつと睨んで直立してゐたが、鋭く張つた四角な肩に激しく息を呑む気勢が感ぜられた。凡太も坂下の方を見下すと、叫ぶよりも前に龍然の手から投げられてゐた下駄が、女衒には当らずに、一本の杉の幹に痛々とした跡を残して、尚ころころと一二間ころげて止まるのが見えた。女衒は腰を浮かせて逃げかけたが、龍然の気配に追求のないのを見てとると、卑屈にねちねちした度胸を見せて、知らぬ顔を粧ひながら麓の方へすたすた降りていつた。流石にその日龍然は、息の乱れを収めてもとの顔付にもどるまで十数歩の歩行を要したが、それも収まると、また超然とした残骸に還元して、一方の足は
もう山は秋が深い。それは、昼の明るさが尚寂寥に堪えがたくて、ひたすら死滅へ急ぐもののやうにしか考へられぬ蝉の音の慌ただしさや、已にいそがわしく遠い空に走り初めた幾流れもの雲や、そしてぽつかりと
もう九月に這入つた一日、凡太はいよいよ出立した。その未明、まだ明け切らぬ黒谷村の、人気ない白い街道を、龍然と二人肩を並べて一言も物を言はずに通過してしまつた。谷間からどす黒い靄が湧きあげて、近い山さへまるで視界には映らない、そして、蜩の音が遠い森から朝の澱みを震はして泌みる頃、丁度朝の目醒めを迎へたであらう黒谷村は、振り返つても、もはや下には見えなかつた。由良は朝の一番列車に間に合はせて、自動車で停車場へ来る筈になつてゐた。
「君、東京へ帰つたら、忘れずに手紙を呉れたまへ」
龍然はだしぬけにそんなことを言つて、まだ停車場へ七八里もあるのに、凡太に握手を求めた、「又来年もぜひ来てくれたまへ」と附け加へながら暫く手を離さなかつたりして。そして長い中絶の後に、もう一里も歩いてから、又さつきの話を思ひ出して、「もし来年も達者でゐたら……あははは――」と笑つたりした。さうかと思ふと、凡太の言葉にはまるで邪慳に耳もくれず、ただすたすたと歩いてゐた。
「どうだい。君にあの女を進呈しやうかね」
龍然は又、いきなりそんなことも言ひ出した。
「尤もあんな女ではね。しかし、女郎や淫売よりはたしかに清潔だから、そのつもりで玩具にする気なら、いつでも自由に使用したまへ。どうせ女衒の手へ渡れば、あいつは何をやり出すのか知れたものではないのだから」
そして凡太が困惑して、返事も出来ずにゐるうちに、彼は煙草に火をつけて、屈託もなくパクパクと煙を浮かせながら歩いてゐた。来る路に、龍然が残骸をねせたあの
汽車がついた。汽車に乗ると、由良はもう劇しく泣きはぢめてゐた。
「達者でありたまへ」
龍然は二人のどちらに言ふともつかず、そんなことを一言二言言ひすて、短い停車時間、ぼんやり窓際に立つたまま明るい空を見つめてゐた。
汽車は動きはぢめた。さようなら。そして由良は泣きながら堅く窓にかぢりついて、激しく