





風博士
坂口安吾
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諸君は、東京市某区某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであらう乎? 御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存知であらうか? 御存知ない。それは大変残念である。では偉大なる風博士が自殺したことも御存じないであらうか? ない。嗚乎。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体は杳として紛失したことも御存知ないであらうか? ない。
風博士の遺書
諸君、彼は禿頭である。然り、彼は禿頭である。禿頭以外の何物でも、断じてこれある筈はない。彼は鬘を以て之の隠蔽をなしおるのである。ああこれ実に何たる滑稽! 然り何たる滑稽である。ああ何たる滑稽である。かりに諸君、一撃を加へて彼の毛髪を強奪せりと想像し給へ。突如諸君は気絶せんとするのである。而して諸君は気絶以外の何物にも遭遇することは不可能である。即ち諸君は、猥褻名状すべからざる無毛赤色の突起体に深く心魄を打たるるであらう。異様なる臭気は諸氏の余生に消えざる歎きを与へるに相違ない。忌憚なく言へば、彼こそ憎むべき蛸である、人間の仮面を被り、内にあらゆる悪計を
諸君、余を指して
諸君、彼は余の憎むべき論敵である。単なる論敵であるか? 否否否。千辺否。余の生活の全てに於て彼は又余の憎むべき仇敵である。実に憎むべきであるか? 然り実に憎むべきである! 諸君、彼の教養たるや浅薄至極でありますぞ。かりに諸君、聡明なること世界地図の如き諸君よ、諸君は学識深遠なる蛸の存在を認容することが出来るであらうか? 否否否、万辺否。余はここに敢て彼の無学を公開せんとするものである。
諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであらうか?
さて諸君、彼の悪徳を列挙するは余の甚だ不本意とするところである。なんとなれば、その犯行は奇想天外にして識者の常識を肯んぜしめず、むしろ余に対して誣告の誹を発せしむる憾みあるからである。たとへば諸君、頃日余の戸口に Banana の皮を撒布し余の殺害を企てたのも彼の方寸に相違ない。愉快にも余は臀部及び
賢明にして正大なること太平洋の如き諸君よ、諸君はこの悲痛なる椿事をも黙殺するであらう乎。即ち彼は余の妻を寝取つたのである! 而して諸君、再び明敏なること
ここに於てか諸君、余は奮然
しかるに諸君、ああ諸君、おお諸君。余は敗北したのである。悪略神の如しとは之か、ああ蛸は曲者の中の曲者である。誰かよく彼の神謀遠慮を予測しうるであらう乎。翌日彼の禿頭は再び鬘に隠されてゐたのである。実に諸君、彼は秘かに別の鬘を貯蔵してゐたのである。余は負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力を以つてして、彼の悪略に及ばざることすでに明白なり矣。諸氏よ、誰人かよく蛸を懲す勇士はなきや。蛸博士を葬れ! 彼を平和なる地上より抹殺せよ! 諸君は正義を愛さざる乎! ああ止むを得ん次第である。しからば余の方より消え去ることにきめた。ああ悲しいかな。
諸君は偉大なる風博士の遺書を読んで、どんなに深い感動を催されたであらうか? そしてどんなに劇しい怒りを覚えられたであらうか? 僕にはよくお察しすることが出来るのである。偉大なる風博士はかくて自殺したのである。然り、偉大なる風博士は果して死んだのである。極めて不可解な方法によつて、そして屍体を残さない方法によつて、それが行はれたために、一部の人々はこれは怪しいと睨んだのである。ああ僕は大変残念である。それ故僕は、唯一の目撃者として、偉大なる風博士の臨終をつぶさに述べたいと思ふのである。
偉大なる博士は甚だ
さて、事件の起つた日は、丁度偉大なる博士の結婚式に相当してゐた。花嫁は当年十七歳の大変美くしい少女であつた。偉大なる博士が彼の女に目をつけたのは流石に偉大なる見識と言はねばならない。何となればこの少女は、街頭に立つて花を売りながら、三日といふもの一本の花も売れなかつたにかかわらず、主として雲を眺め、時たまネオンサインを眺めたにすぎぬほど悲劇に対して無邪気であつた。偉大なる博士ならびに偉大なる博士等の描く旋風に対照して、これ程ふさわしい少女は稀にしか見当らないのである。僕はこの幸福な結婚式を祝福して牧師の役をつとめ、同時に食卓給仕人となる約束であつた。僕は僕の書斎に祭壇をつくり、花嫁と向き合せに端坐して偉大なる博士の来場を待ち構えてゐたのである。そのうちに夜が明け放たれたのである。流石に花嫁は驚くやうな軽率はしなかつたけれど、僕は内心穏かではなかつたのである。もしも偉大なる博士は間違へて
「先生約束の時間がすぎました」
僕はなるべく偉大なる博士を脅かさないやうに、特に静粛なポオズをとつて口上を述べたのであるが、結果に於てそれは偉大なる博士を脅かすに充分であつた。なぜなら偉大なる博士は色は褪せてゐたけれど燕尾服を身にまとひ、そのうえへ膝頭にはシルクハットを載せて、大変立派なチューリップを胸のボタンにはさんでゐたからである。つまり偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したに相違ない色々の条件を明示してゐた。
「POPOPO!」
偉大なる博士はシルクハットを被り直したのである。そして数秒の間疑はしげに僕の顔を凝視めてゐたが、やがて失念してゐたものをありありと思ひ出した深い感動が表れたのであつた。
「TATATATATAH!」
已にその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向ふ側に見失つてゐた。僕はびつくりして追跡したのである、そして奇蹟の起つたのは即ち丁度この瞬間であつた。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。
諸君、開いた形跡のない戸口から、人間は絶対に出入しがたいものである。順つて偉大なる博士は外へ出なかつたに相違ないのである。そして偉大なる博士は邸宅の内部にも居なかつたのである。僕は階段の途中に凝縮して、まだ響き残つてゐるそのあわただしい
諸君、偉大なる博士は風となつたのである。果して風となつたか? 然り、風となつたのである。何となればその姿が消え