姦淫に寄す

坂口安吾



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 九段坂下の裏通りに汚い下宿屋があつた。冬の一夜、その二階の一室で一人の勤め人が自殺した。原因は色々あつたらうが、どれといつて取立てて言ふほどの原因もない、いはば自殺に適した生れつきの、生きてゐても仕様のない湿つぽい男の一人であつたらしい。第一、書置もなかつたのである。そんなあつさりした死に方が却つて人々を吃驚びっくりさせたらしいが、その隣室に住んでゐて、死んだ隣人の顔さへ見知らずに暮してゐたといふ図抜けた非社交性と強度の近視眼をもつた一人の大学生だけが、隣室のこんな大事に見世物ほどの好奇心さへ起すことなく寝ころんでゐた。のみならず、こんな出来事があつては当分あの部屋も借手がつかないだらうと宿の者がこぼすのをきいて、大学生はお伽話に合槌を打つやうな静かな声で、そんなら俺が移らうかなと呟いた。別に義侠心を燃したらしい素振りではなく鼻唄のやうな物足りない様子だつたので気にとめる者もなかつたが、自分の部屋へ戻つてくると、この男はほんとにノコ/\隣室へ移つてしまつた。どうといふしっかりした理由があつたとは思はれない。全ての挙動が原因不明で物足りない風に見えるくせに、引越してしまふと百年も前から其処に居ついてゐたやうに、至極自然で物静かで落付いてゐた。あの男も自殺臭いと言ふ者もあつたが、彼の顔付を見たことのある人々は思はず噴きだしたりしながら、そんな突きつめた素振りは微塵もない彼の勿体ぶつた顔を思ひ出して、あいつはつまり変り者といふ奴で、考へる頭はいいにしろ生きる頭は悪い種類の、丁度動物園の河馬を考へ深くしたやうな割合と無難な愚か者の一人だらうと噂した。そこで宿の亭主が考へたことには、これはてつきり下宿料を値切る魂胆に相違ないと勘のいいところを人々に洩らしてゐたが、実に呆れ果てたことには(そして宿の亭主が悦んだことには――)月末がくると催促もしないうちに定まつた下宿料を届けてよこした。もと/\この男は金払ひの几帳面な男であつた。そのうへ部屋なども常に清潔で整然としてゐた。ただ彼はめつたに外出することがなかつた。稀に机に向つてゐることもあつたが、大概は整然と寝床をしいて矢張り整然と昼寝をむさぼつてゐたといふのである。恐らくほんとの話であらう。彼は同宿人のどの一人にも挨拶することがなかつたし物を言ふこともなかつたが、そのくせ物腰は無愛想でもなかつた。なぜならば此の男は人の顔を見るときには、どうしても此れは笑ひだと判断しなければならない種類の、そして決して其れ以上の何物でもない種類の、たしかに一種の笑ひを機械的に顔に刻む習性を持つてゐたらしい。それは喪中の人に向つても例外はなかつたし、怒つた人に向ふ時でも例外はないやうに見えた。いはば全く張合ひがなかつたのである。こんな男を相手にするのはまるで雲を掴むやうなもので、あいつは馬鹿だと決めなければ、こつちが馬鹿を見るばかりだと人々は考へた。そこで初めは此の男に極度の好奇心を燃した人々も、全く拍子抜けがしてしまつて、彼が自殺の部屋へ引越して三日とたたないうちに皆んな此の男を忘れてしまつた。
 こんな男の顔立ちといふものは何処に転がつてゐても目立たない風の極めて通俗的なあれだと読者はきめてしまつたに相違ない。ところが此の大学生は案外整つた顔をしてゐた。そのうへ体格がのび/\と大柄なせゐか、どことなく寛大な鷹揚な風格があつて、一見犯しがたい味と品位とがほのみえることもあつたのである。そこで斯んな男といふものは時には底の知れない怪物に見えて一種の畏怖を人におしつけることもあるものであるが、又こんな男に限つて、あれは馬鹿だときめてしまへば極めて簡単に其の範囲内の型に当てはまつて見えるものである。ところが此の男が毎週の水曜日のきまつた夕刻になるとブラリと出掛けて必ず夜更けまで帰らないことに気付くと、あんな男でもやつぱりさうかと人々は考へてニヤリとした。つまり彼奴でも女があるのかといふ意味であらう。けれども人々の想像は的を外れてゐたと言はなければならない。この大学生は教会の聖書講義会といふものへ通つてゐたのである。
 これは凡そ柄に合はない莫迦々々しいことに見えるであらう。けれども其の教会では矢張り其処では其処なりに全ては此の男の柄にはまつて見えたかも知れなかつた。いはば彼は、同じ彼が事務所の机に向つてゐても留置場の中にゐても料理店のコックであつても乃至は総理大臣であつてさへ極めて自然に其れは其れにしか見えないやうな、単に全ての現実が全ての現実でしかないやうな、「常に凡ゆる断片」とでも呼ぶべき男であつたかも知れない。
 しかしこれだけは断つておくが、彼は一度も神を信じたことはなかつた――ないやうであつた――にちがひない――尤もこれは取立てて言ふほど重大なことでもなささうである。つまり我々は斯んな男が神を信じるなんてそんな可笑しなことがあつてたまるかといふだけの理由で、此の男は神様なんて考へたこともないのだと片附けてしまつて構はないのだ。こんな張合ひのない男の心を一々推測してはゐられないのである。
 氷川澄江は聖書研究会の一会員であつた。彼女が此の大学生に興味を惹かれた理由ははつきりしてゐない。併し彼女が五十名近い会員の中から彼のみに挨拶し話しかけるやうになつたのは、たしかに何らかの興味ある性格を此の男の中に嗅ぎ出したからに相違ない。いつたい此の男(村山玄二郎と称んだ)は一見甚だ冷めたい孤独の威圧を漂はす男で、かういふ男に挨拶したり話しかけたりするには余程の無関心か余程の労力を必要とする。どこの交遊関係にも斯んな人物の一人二人はゐるものであるが、さて話してみれば見かけによらず物分りもよく、寛大で、寧ろ他人の好意に感動し易いと思はれるほど盲信的で、おまけに絶えず温い心を秘かに他人へ燃しつづけてゐたりする。そして孤独を激しく憎悪してゐるが、憎み疲れて孤独に溺れ孤独に縋りついてゐる。もう四十に手のとどく澄江は、熟練した女の感覚で玄二郎の孤独な外貌から内にかくされた寧ろ多感な心情を見抜いたことは想像することができる。
 或夜のことであつた。澄江は馴れ/\しすぎるほどの微笑を泛べて、すでに長年心おきなく交際してゐる友達へ話しかけるのと全く同じに玄二郎へ挨拶した。その心をきない微笑、打ちとけた物腰、一片の危懼もない瞳――その瞳にはただ一人の人のみに話しかけた或る種の暗愁と悪戯を読むことさへできたが――それは恰も彼女自身すら彼と長年の交遊を思ひ信じてゐるのではないかと疑はれるばかりであつた。こういふ女の心は全く男には解きがたい謎である。彼女は自分の打ちとけた様子によつて一時に心をひらくであらう男の心理を計算しつくしてゐたものだらうか。この微笑は若い女には出来ないものであらうが、また頭の悪い女にも出来ないことに相違ない。のみならず、女のこんな微笑と大胆な他動性とは男にとつて全く解きがたい謎であるばかりでなく、困つたことには無邪気にさへ見えてしまふ。そしてほのみえる女の情慾をむしろ純粋であり、恰も宝石のかもすがやうな清らかな情熱と多情ではないかと考へたりしがちである。ところが玄二郎にいたつては、そんな人並みの意識さへ思ひ浮べる余地がなかつた。この朦瓏とした男にはただ事実が分つた。否、事実の中にゐた。澄江に話しかけられてゐるといふこの事実の中に。そして事実であるが故に、それはもはや理由や原因を超越して専ら「当然」にしか見えなかつた。彼は幾分あからみながら併しながら彼も亦長年の友達と語るやうに話しはぢめてゐたのである。斯うして始めて挨拶を交した日に、二人は已に夜更けるまでとある静かな喫茶室で閑談してゐた。
「貴方のやうな方がいつと純粋に神をもとめてゐらつしやるのでせうつて、先生が仰言てゐましたわ」
 この人を食つた言葉は明らかに此の夜澄江の口から発せられたものである。しかも彼女は斯う言つたときに幾分頸を曲げて上眼づかひに彼を見上げながら、殆んど媚びるやうに微笑した。こんな途方もない言葉の意味は徹頭徹尾わけがわからない。澄江は玄二郎を子供扱ひに――これは悪い意味でなしに確かに彼女は玄二郎に少年を見出してゐる、こういふことは言へたかも知れない――そしてその少年に向つて一種の親愛な揶揄を言つたのかも知れない。尤も女が男の中に少年を見出すといふことは已に或る種の関心を懐いてゐることと同義語でもあるだらう。だが如何なる種類の関心であるかは聡明な女にあつては矢張り謎である。澄江の慧眼は玄二郎の心に無神論を読み破つたとも受けとれるが、また、彼女の言葉にいつわりはないのであつて、神に変形したノスタルヂイを彼の心に見たのかも知れない。さればとて、そこから澄江の心を推断する手掛りを求めることも軽率であらう。
 併し研究会の講師が澄江に洩したと言はれる言葉は恐らく真実であつたらうと思はれる。先にも述べたやうに彼の表情から彼の心を汲取ることは全く難しい。もしも彼を往来で見た人には斯んな男が教会へ通ふなんて思ひもよらないことであらうが、しかしながら此の同じ男を教会の中で見た人には、こんな男ほど神をもとめ、むしろ不可思議な方法を通して神を眼前に感得してゐるのではないかとさへ疑ぐりたくなることもあるであらう。研究会の講師はたしかにこの男に特殊な興味を感じてゐた。彼は時々五十名の聴衆の中に玄二郎のみが唯一の人間であるかのやうに彼に向つて講義を進めてゐることがあつた。ところがさういふ講師に向つて、玄二郎が暗示する表情はこれは又完き感覚の世界に於て処理する以外には全く方法がない。いはば漠然そのものである。人々は人各々の容器によつて無数の彼を読みとることができると思ふが、恐らく講師は神秘的な能力を彼に信じたくなることもあつたらうと思はれる。
 この大学生のこの傾向は彼の素朴を物語るものであらうか。むしろ最も聡明な(同時に無意識な本能的な)悪魔的な狡智を物語るものであらうか。或ひは別にそれ以上の善へも悪へも発展することのない単にこれはこれで終る平凡な性質にすぎないのか。
 恐らく澄江は講師さへ瞞着されたこの男をある点で看破つてゐたのはほんとであらう。尤も彼を看破ることによつて優越を感じたのか、それとも看破つたところのものに一層の畏敬と讃美を捧げたのか(さういふこともありうる)、これ又軽率には解きがたい。併しながら、これが如何なる純粋な心情の上になされたにせよ将又はたまた最も精神的な友誼にせよ、これは一つの姦淫であることは疑へない。但しかかる姦淫は人の世に於て最も甘美であり華麗であり幽玄なことであるかも知れない。或ひは彼女は玄二郎に少年の心と同時に少年の姦淫を読み破つたのかも知れないが、その場合には、彼の中に見出したと同じ姦淫を彼女自らも心に蔵してゐたことは言ふまでもないことだらう。
 澄江の言葉が過褒にとれたからであらうが、玄二郎は幾分赧らみながら、併し微笑して答へた。
「僕は自分の神様は持つてゐるかも知れません」
 私は言ひ忘れたが、この聖書研究会は決して宗教的な禁欲的な雰囲気の中に行はれてはゐなかつた。寧ろ宗教的な雰囲気に誤魔化しうることを利用して人々は一層非宗教的な自分をさらけだす気楽さと破廉恥を与へられてゐたやうである。一般に日本人は宗教的であることが甚だ不似合で滑稽であるばかりでなく、往々にして宗教的であるために却つて救はれない人間に見えがちな国民である。ところが、氷川澄江にいたつては教会の中に於て全く劇場の中に於ける気易さであつた。彼女は五十名の一団の中で最も宗教に無関係に見えたばかりでなく、恐らく劇場の中に於ても彼女以上に宗教に無関係に見える人は稀であつたに違ひない。彼女の服装は美麗であつた。併しその趣味は洗煉されてゐた。そして四十に近い年齢であつたが美貌であつたし知識的な顔立だつたので一層若々しく感じられた。殊に眼が輝いてゐた。その瞳にたたえられた複雑な翳は時に少女の澄みきつた好奇心を思はしめ時に熟練した多情な女の好奇心を思はせた。だが宗教の持つ暗い感じは彼女のどこからも見出すことができなかつた。彼女は多分単に退屈か気紛れから斯んな場所へまぐれこんできたのだらうと考へられるが、併し又、こんな気楽さうな女に限つて何か不思議な常人には理解しがたい通路に由つて、常人とはまるで違つた奇妙な救ひを宗教の中に感じてゐると疑ぐつてみることもできやう。もしそんな場合がありうるとすれば、こんな女と宗教との奇天烈な結び目こそ却つて誰人の信仰よりも崇高であり深遠であると考へられないこともない。尤もこの種の異常な想像はなるべく避ける方がいい。
 彼女は自分を未亡人であると言つてゐた。併し彼女の生き/\とした表情や、翳のない澄みきつた動作の中には、実に落付いた安住を読むことができたので、実は彼女には立派なそして寛大な夫があるにも拘らず嘘をついてゐるのかも知れなかつた。うつかりすると其の夫を神様よりも愛しもし尊敬もしてゐたかも知れたものではない。尤も玄二郎にとつて、それはどうでもいいことであつた。彼の心はまだそれ以上のものへひらかれてゐないやうである。いはば彼は長い冬籠りから突然花園へともなはれてきた人のやうに、きらびやかな風景へ静かに腰を落付けて、現実をただ茫漠と感じとり浸りきつてゐさへすれば和やかな憩ひのやうな安らかさを味ふことができたのであらう。どんな和やかな場合でも人の心といふものを掘下げてゆけば、きつと苦味や酸味に突き当るものであらうが、玄二郎の場合に於てもいらぬ頭を働かして自分の心を穿鑿して妙な石にぶつかつたりしたら、彼は却つて吃驚し困惑して顔を顰めてしまつたかも知れない。それはちつとも彼の心の清潔を意味するものではなく、むしろ煩雑をもたらしまいとする無意識な且悪質なずるさと、激しい遥かな憂鬱とを暗示してゐるやうに思はれた。
「神様つて、美しいものでせうね」
 と彼女は言つた。笑ひながら。
 だが、こんな異体えたいの知れない言葉から意味ありげな何物かを探し出さうとする無役むえきなことは忘れることにしやう。玄二郎は全ての時間がただ愉しいやうに微笑しながら、彼女の全ての言葉に実に愚劣なエスプリのない返答をかへしてゐた。あまつさへ、彼は時々生き/\とした笑ひを泛べて、
「僕は野心に疲れきつてゐるのです」
 と呟いた。――のみならず、それを呟くときの彼の顔付ときては殆んど誇らしげに見え得意であるかにさへ見えた。今にも嬉しさのあまり哄笑するのではないかと思はれるほど嬉々とした顔付で。恐らく、この言葉はよほど彼の気に入つたのであらう、三十分ぐらゐの間をおいて都合三度くりかへした。おまけに、喫茶店をでて、愈々停留場へ向つて歩いてゆく別れの夜道で、彼は更に生き/\とした声で同じ文句を呟くことを忘れなかつた。
「僕はもうどうしていいか分らないほど疲れきつてゐるのです。まるで夢のかたまりのやうな途方もない目当もない、出鱈目な野心が、僕をすつかりくた/\に疲らしてしまつたのですからね!」
 そして彼は愉しげに笑ひ、それから漸く如何にも重荷をおろしたやうな安堵をうかべて彼女に訣れをつげたのである。
 そのことがあつてからの水曜毎に彼等は必ず夜晩くまで語りあつた。凡そくだらない会話であつたに相違ない。恐らくトンチンカンでさへあつたであらう。けれども、二人はあきもせずに時々約束して芝居を見、映画を見た。夢のやうに日が流れ、玄二郎の学年試験も終つたとき、突然春が訪れてゐた。その春に気付いたとき彼は心にまぶしいものを感じ、それから、愁ひを脱ぎすてたやうな爽やかな溜息を感じた。さういふ漠然とした季節の感覚が、一片れの雲のやうな斯んな男にのこされた唯一の切実な実感であつたかも知れない。
 そして、まだ浅い春の一日、彼は澄江にまねかれて、彼女の大磯の別荘へ行つた。――
 その日はひどい嵐であつた。玄二郎が東京を出るときも横なぐりのひどいしぶきが暮色の中のやうに淋れてしまつた街を荒れ走つてゐたが、大磯駅へ降りた時には一段と風速もまして、プラットフォーム一面になぐりこむ水煙りが濛々とはね狂つてゐた。濡れきつた改札口に澄江が待つてゐた。澄江の身体が濡れてゐるわけではなかつたが、四囲の湿つた暗い感じで、まるで彼女も嵐のために濡れおちて痩せたやうな姿に見えた。彼女は玄二郎の姿を認めると、漸く笑ふことができたやうに笑つてみせたが、一瞬の表情が経過すると、いつものやうに反省のある冷静な微笑にかへつた。彼女の顔色はよくないやうに思はれた。
「ゐらつしやらないと思つてましたわ。ひどい嵐ですわね」
 自動車に乗つてから、玄二郎はいつもの屈託のない笑顔で言つた。
「お身体が悪いのではありませんか? お顔の色が悪いやうですが」
「ええ、すこしばかり。――でも、たいしたことはありませんわ」
 自動車をおりてから松林を一町あまり歩かねばならなかつた。一本の傘に二人の身体を包むにしては余りに嵐が激しすぎた。嵐に傘を押し流されて二人はときどき密生した松に突き当るほどよろめいたが、物を言ふ余裕もなかつた。雨は容赦なく降りこんできた。建物に辿りついたとき、漸くのやうな笑ひ顔を示し合ふことが辛うじてできたばかりであつた。一室へ落付いたときには、まるで病み疲れたやうな異常な疲労が彼女の顔に表はれてゐたが、無理につくらふ微笑のために、それが一層青ざめて見えた。
「お天気だと海の景色がきれいなんですけど。……四五日ゆつくり泊つてらしてね」
 彼女は暫くそれだけを繰返して言つた。繰返すたびに、前にも已に同じ言葉を述べてゐることを忘れきつてゐるやうに見えた。そして言葉を言ひ終つたあとには、今の今まで喋つてゐた自分にさへ気付いてゐないやうな、激しい放心と疲労を表はしてゐた。それを彼女は無意識に微笑で隠してゐるのであつたが、そのために強められた明るさが益々病的なすきとほる青さに感じられた。全てそれらは、漠とした無形の苦痛に激しく抗争するもののやうな切なさを表はしてゐた。
 澄江は近所の別荘へ電話をかけて、一人の男と一人の女を呼び寄せた。彼等は夜の九時頃までトランプや麻雀をして遊んだ。
「きつと四五日泊つてらつしやいね。泊つて下さいますわね。嵐さへしづまると――浜は静かで綺麗ですわ」
 彼女は遊戯の間でも、時々思ひだしたやうに言つた。
「ほんとに静かでひろびろとしてゐますわ。私は今頃の海がいつと冷めたく広い感じがして好きなんですわ」
 だが彼女の顔に表はされた疲労はもはや一様のものではなかつた。眼は落ちくぼんでゐたし、狂燥を帯びた挙動には同時にのつぴきならぬ放心をともなつてゐた。
「外へでてみませうか? 私顔がほてつてしまつて……」
 併し物凄じい戸外の嵐に脅えてゐた人々は答へることができなかつた。その沈黙に澄江の耳は漸く嵐の唸音をききとることができたらしい。彼女はとつさに間のわるさうな幼い少女の顔付をしたが、たうとう悲しさをおさへることができなくなつた冷めたさで、しやうことなしに笑ひだした。
「まあ、私つたら。こんなひどい嵐だといふのに」
 遂に来客の女がたまりかねて言つた。
「あなたは気分が悪いんぢやなくつて?」
「ええ、少し熱があるやうだわ。でも、たいしたこともないやうだけど」
「そんなら夜更しは毒だわよ。早くおやすみなさいな」
 澄江は素直に頷いた。その顔にはもはや苦痛を隠すこともできないやうな切なさが表れてゐた。そして来客は帰つていつた。
「ほんとに失礼しましたわね。ちよつとした神経熱なんですわ。かんにんして下さいね。せつかく来ていただいて、お相手もできないなんて……」
 だが、この最後の言葉を述べることができたとき、彼女の瞳はこの一日の中で最も澄んでゐたし、態度にも全く平素の落付を取戻してゐた。微笑も静かで和やかに見え、全く病的なそれではなかつた。彼女は玄二郎を彼の寝室へ案内した。
「おひるまで、ゆつくりおやすみなさいね」
 玄二郎はただ微笑をもつて答へた。彼の思念は全く杜絶えてゐたのだつた。そして彼は彼女の跫音あしおとが可憐な雌鳩のそれのやうに遠ざかるのを夢からの便りのやうに聞き終つてのち、光の下の椅子へ戻つて腰を下すと、朦瓏とした肢体の四周へ、極めて細いそして静かな冷めたさがみるやうに流れてくるのが分つた。彼が自分にかへつた時、彼の身体は絹糸の細い柔らかい気配となつて感じられたばかりであつた。今にも透明なものが泪となつて流れでるやうに.思はれたが、併しそれは泪にもならずに、遠く深い溜息のやうなものとなり、ひつそりした夜の気配へ消えこんでいつた。それから更に静かな遠い冷めたさが河のやうな心となつて戻つてきたのだ。それは懐しい時間であつた。きびしい苛酷な孤独のもつ最も森厳な愛と懐しさと温かさ。恐らくさういふものでもあつたらうか。もはや雨はやんでゐた。残された風のみが荒れ狂ひ、広く大きな松籟しょうらいとなつて彼の心になりひびいてゐた。自然の心を心にきいた切ない一夜であつたのである。やがて長々と欠伸あくびを放つと、心安らかにねむりについた。
 翌朝、彼は早々とめざめた。召使ひ達は起きてゐたが、澄江はまだ起きてはゐないやうであつた。彼は海岸へ散歩にでた。
 嵐はすでにおさまつてゐた。吹きちぎられた多くの雲が空に残りまだあわただしく彷徨さまよふてゐたが、隙間々々に透きとほる青がかがやき、朝の爽やかな光が時々そこからのぞけて見えた。砂はじつとり濡れてゐたが、そのために却つて快い弾力があつて踏む足ごとにキシ/\と音を生んだ。彼は何事も考へずに歩いてゐたが、又泛かびでる考へもなかつたのである。全ては落付いてゐた。そして静寂であつた。路も砂丘も松林も。そして彼自身も。海は浪が高かつたが嵐のすぎた安らかな気配はひろ/″\と水の果てるところまで流されてゐたのだつた。広茫とした砂原に一人の人影もなく、ただ彼のふむ足跡のみがしるされてゐたのだ。彼の見凝める遥かな水の涯からは彼の心にかへらうとする大いなる気配があがつた。長々と眺め、長々と眺めおはり、そして静かにふりむいたとき、再び彼は彼にかへらうとする大いなる風景を知つた。それはその広茫とした砂原に一条ひとすじにひかれた自らの足跡であつたが。
 別荘へかへると、澄江もすでに起きてゐた。
「海はとても壮大ですね。ひろびろとして、胸がひらかれてゆくやうでした」
 彼は心から愉しく、歌ふやうに言ふことができた。
「今しがたもくやんでゐたところでしたわ。おともしたかつたのに……」
 澄江の顔に昨夜の疲労は全く見出すことができなかつた。そして彼女も歌ふやうに微笑とともに答へた。
「僕はね――」
 玄二郎は静かなやさしさに包まれながら、何のこだわりもなく微笑を泛べて言つた。
「僕は今日、はやばやと帰らなければならないのです。どうにも仕方のない用があるものですから」
「あら、だつて、そんなことありませんわ。もう一日ぐらゐ……」
「ええ、でもね、ほんとに余儀ない用があるんですから」
「まあ、さうですの。でも――ほんとに残念ですわ」
 恐らく最も敏感を誇る人でさへ彼女の顔から又言葉からそれ以外の隠れた意味を読みとることはできなかつたに違ひない。ところが、この鈍感な大学生は実に不遜至極にも、彼女の胸に恐らく彼女自身さへ気付かぬであらう安堵の吐息を読んでしまつたやうに感じた。勿論こんな男の怪しげな感覚に信用を置くことは夢にもできることではないが、併し彼はその時のある気配の中に於て――少くとも彼自身が浸つてゐたある安らかな気配の中へ、彼女も亦全く一つの同じ気配となつて流れこんできたことを感じてしまつたのであつた。そして彼は彼女の安堵を見とどけたことによつて、まるで古代の騎士のやうな満足を感じてゐた、といふのであるが真偽のほどは請合へない。尤も、彼女と別れた汽車の中で、彼はやみがたい哀愁を感じつづけてゐた。とはいへそれは彼女を対象にしたものではなく、ただ最も漠然とした一つの気分としてであつたが。併し、かかるやみがたい悲しさ故に、その悲しさは懐しく心温いものであることを彼はひし/\と感じつづけてゐたのであつた。
 玄二郎はその後教会へは行かなくなつた。恐らく澄江もさうだらうと思はれる。尤も澄江は例の無関心な明るい微笑を泛べながちその後も教会へ現れてゐることを考へるのは不可能でない。それに彼女は玄二郎が二度と其処へ現れないことを見抜く力量もある筈だから。尤も玄二郎に再会したと仮定しても、彼女が動揺を覚える理由は全くなかつたかも知れないのである。彼女は玄二郎に見せてしまつた一日の激しい疲労を恰も夢の出来事のやうに忘れることもできたであらうから。然りとすれば、杞憂を懐いた玄二郎こそ、詩も花もない一野獣の姦淫に盲ひた野人であつたのだらう。