





帆影
坂口安吾
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凡そ退屈なるものの正体を見極めてやらうと、そんな大それた魂胆で、私はこの部屋に閉ぢ籠つたわけではないのです。それとは全く反対に、凡そ憂鬱なるものを忘却の淵へ沈め落してしまほふと、それは確かに希望と幸福に燃えて此の旅に発足したのでした。それも所詮単なる決心ではありますが――とにかく其の心掛けは有つたのです。勿論初めのうちは、時々は散歩に出掛ける心持にもなつたものですが、その気持でさて立ち上つてみますに、何か一つ心に満ち足りない感じがして、つひうかうかと窓から外ばかり眺めてゐるうちに、ガッカリして寝倒れてしまひ、もう天井にヂッと
此処は太平洋に面した、とあるささやかな漁村ですが、私の部屋には、ひろびろと海に展かれた一つの窓があるのです。晴れた日は、窓に広い水平線が動き、白い小さな帆が部屋の余白を居睡りながら歩いて行くのです。陽射しを受けた部屋の畳に、沖の波紋が透明な模様を描きながら、終日ゆらゆらと揺らめいてゐるのです。黄昏、時々お
言ひ遅れましたが、私には一人の
「散歩した方が体躯にいいのよ」
「君一人で体躯をよくしたまへ」
「そんなにあたしがうるさいの……」
そして緋奈子は時々思ひ出したやうに、ある時は日蔭に、ある時は日向に、泣きはぢめるのです。といつて、それだからウルサイわけではないのですが……。それでは何故にうるさいのかといつて――別にウルサイからウルサイのではないのです、つまり漠然として、本質的に、存在そのもののレアリテがうるさくて饒舌で堪へ難いのです。こんなにウルサガラレテゐながら、この溌溂とした美少女が私のやうな痩せ衰へたやくざ者の身辺を立ち去らないのは実に一種の不合理である、と、私はいはば厭がらせのやうにこうお世辞を言ふのです。すると緋奈子はあの窓から遠い水平線を眺めながら、私を全く軽蔑した蒼白い嘲笑を浮べるのです。それはお互の武器ですから、止むを得なかつたのです。ところが近頃は、いくらか之と、様子が違つてきたのです。もう夏が来ましたから――さうです、もう夏が来てしまつた――いつの間に用意して来たのですか、全然私の気付かなかつたことですが、緋奈子はトランクの底から私のと彼の女のと二着の海水着を取り出して、「あたし一人で散歩してくるわよ、ね」と言ひ残して、あの窓の下のなだらかな銀色の上で、村の小供達と一日遊んで暮すのです。水へ這入るのはごく稀なことで、大方は小供達にボクシングの型を教へたり、輪になつて踊つたり、
今さら気取つても仕方のない話ですから、正直に打ち開けて断言しますが、私も実は緋奈子が羨しかつたのです。私も、この憂鬱な部屋を棄てて、子供達と一緒に、あんな風に遊びたかつた。しかし、さういふ思ひに駆られることからして、已に並ならぬ億劫な事柄でありますので、私はなるべく自発的に思惟を中絶して、靄だらけな昼寝を貪つたりすることが多かつたのです。それに私は、なぜだか、今更ノコノコと白日の下に顔を曝すのが気羞かしく思はれてならない気持もあつたのです。つまり彼等は――といつても、単に緋奈子や村の子供達に就てばかりではなく、いはば此の漁村全体の人と風景にわたつて――已にある種の密接な雰囲気がつくられてゐるのに、私だけ一人は其処にうらぶれたエトランヂェであるやうに考へられてならないからです。たとへば私が、初めて彼等の集団へ顔を突き出した場合の気まづい雰囲気を考へたなら、私といふみぢめなエトランヂェが、なんと気の毒に消えさうでありますことか。勿論、素朴な村人たちが、さうまであくどく私を白眼視するだらうとは思はれないことですが、私としてはそんな場合、常にかういふ気まづい雰囲気を自分一人で創作して、その当座それを押し切つても無理に親しもうとする勇気は持てないのです。よしんば現実の安逸さが古沼程も退屈極りないものであるとしても、予想されたより豊富な安逸さを求めて、この「現実」を賭ける気持にはまづ滅多には成らないのです。これは甚だ余談ですが、ですから私は、「死」ぬことが嫌ひであります。たとへば「死」に、虹ほども豊富な色彩と休息が予約されるとしてからが、現実「生きてゐる」うへは、この現実の安逸を賭けて投機を試みる心になりませんのです。――そして、ありていに恥を言へば、この海風の通る部屋の中では、私は一人ぼつちの真昼を迎へると、部屋の片隅に抹殺し去られた私の海水着を秘かに取り出して、臆面もなく之を着込んでゐるのですが……流石にしかし、それを発見されないやうに、頸ばかり窓から突き延して、広い海原と浜に
「緋奈子……緋奈子……緋奈子……緋奈子……」
気がつくと、低いかぼそい不思議な声が、私の胎内からさう緋奈子を呼んでゐる……私が現実の緋奈子を呼ぶ理由はないのです。あれは実際
この漁村に人死がありました。私の窓の、目の下のなだらかな銀色に、村の少年が溺死体となつて発見されたのです。無論あかるい真昼間の出来事で、赤熱した砂浜が、ひろくピカピカと
緋奈子は、これも亦虚しく蒼白な顔に目ばかり大きく見開きながら、この真昼の部屋の日盛りへ、恐らくは暫くぶりで帰つて来たのです。緋奈子は机に頬杖をついて、今悲劇のあつたあたりの、もはやそれらしい痕跡もないひろびろとした砂浜から、遠い水平線の方を眺めてゐたやうです。やがて、ぼんやり天井を睨んでゐる私の傍へ、気の抜けた形で近づいて来たのですが、まもなく私の胸に顔を伏せて泣きはぢめたのです。
「あたしを放さないでね。あたしを愛してね。あたしは淋しいの。いつもいつもあたしを放さないでゐてね……」
その一日、緋奈子は私の胸の中に泣いてゐました。私は身動きもしなかつたのです。どうせほかのことを考へてゐますので、別にウルサイとも思はなかつたものですから、私は緋奈子の影を抱きしめてゐる白日の幻を見てゐたのです。――黄昏、緋奈子に誘はれて、少年の家へ弔問に行きました。また後日には、その零れたやうな葬列も、松林の間にチラチラと隠れて行つてしまふまで、見送つたのです。そしてあの黄昏から、私は俄かに外出する男と成つたのです。意味もなく、別に感慨もなく、ただ成行のままにです。
出て見れば、外もしかし、やはり同じ退屈な場所にすぎなかつたのです。緋奈子が、同じウルサイ存在に変りのなかつたのと同じやうに……。いはば、それまではあの一部屋に限定されてゐた退屈を、深々とした蒼空の下へ野放しにしただけのことだつたのです。とはいへ私は、いつたん浜に出てみると、恰もそれだけの現実しか見知らない男のやうに、それからの毎日は、日もすがら窓下の浜辺に落ちて、青々とした海を眺める一つの点と化したのです。そして黄昏が来ると、促されて緋奈子と二人、倉皇と暮れてゆく渚を長く彷徨ふのですが、私達の影法師だけは、西に向く時は背に、東に向く時は前に、長々とした寛大な心を静かに並べてゐるのですが……。