





群集の人
坂口安吾
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雑沓の街は結局地上で一番静寂な場所であるかも知れない。
先生は独身で通したので、もともと一人ぽつちであつた。特殊な団欒を持たないので、紋切型の社交が殊更に
孤独には雑沓の街が好もしい。其処では各の人々がお互にアンディフェランでノンシャランで、各の中に静かな泉を
昼も夜も先生はなるべく群衆の中を歩き廻るやうにした。同じ一人ぽつちでも、つくねんと部屋に閉ぢ籠ることは、或る意味で結局饒舌であり五月蠅いものだ。それは雑沓にひき比べて寧ろ大変騒然たる濁つた思ひさへする。部屋そのものの狭さのやうに其は狭少で冷酷で、虚無へまで溶けさせてくれるやうなあの雑沓の温い寛大さが足りない。そのために先生はなるべくならば陰鬱な部屋の窓から黄昏の空の動きやパラパラと降る星のあかりを眺めないやうにして、逍遥に疲れた時は花やかな喫茶室へもぐり込んで皿やフォークのガチャ/\と鳴り響く音に白い心を紛らすやうにした。
そして又街へ出ると、ある時は
ある夜のことであつた。
かなり夜更けてもう人波の散りかけた頃であつたが、先生は不思議な青年に目を止めたので、なぜともなくその後をつけることにした。尤もその青年はそれほど風変りなわけでもない。ただ夜更には、行人といへば、多く吹溜りの屑のやうに
青年は有楽町でも止まらなかつた。日比谷をも素通りしてヒッソリとした濠に沿ひ尚も緩やかに歩むのである。やがて片側に
先生もはじめて我に返つた。随分遠い所までウカウカ歩いて来たものだと思つた。そして見廻したところ、そのへん一帯の何物も先生の嘗て見知らぬ場所であつた。自分も空車を止めて早速にも帰りたいと考へたが、生憎通つた数台の自動車は客を載せて疾走する慌ただしい車で、アッケなくブウンと唸りを引いたまま行つてしまふと、
そのうへ道のあちら側に小さくあるが巡査の姿を認めたので、先生はどういふものかギョッとして、直ぐさま振返り、今来た同じ路を歩いて帰ることにした。その路は、それは次第に邸宅の並んだ睡つたやうな街になつて、門燈の奥手の方に黒く大きく建物が輪廓だけの塊りとなつて見えたのである。
やがて幾曲りかするうちに、今迄よりはやや広いひどく立派な並木路へ出た。恐らく八間ほどの道幅であらう。時々鈴懸の隣り合せに伊達なこしらへをした街燈があつて、そこだけの葉を円く照らし、潤んだあかりを落してゐた。折から一台の自動車が走つて来たが、咄嗟に呼び止める意欲も忘れてゐると、自動車も勧誘せずに唸りを残して忽ち小さく消えてしまつた。
暫く歩いて行くと、いきなり道端に沿うて細長く建てられた赤い煉瓦の洋館があつた。かなり大きいのでオフィスかと先づ思つたが、いやいや、之はアパアトであると直ぐ先生は判断を改めた。勿論一つとして燈りの洩れようとしないその建物を見上げ乍ら先生は近づいてきて、いよいよ建物の前に差しかかると不思議に入口が開け放してあつて――おや開け放してあると思つた時には入口の前を通り過ぎてしまつてゐたが、たしかに開け放しであると思つた。ところが建物の中央にある正面入口に来かかつたので今度は良く見ると、それは
併し愈その建物を通り過ぎようとして其の末端の入口へ差しかかると、それは矢張り確かに開け放しであつた。そのうへ、二階の廊下にあるらしい
先生は一段毎に階段と自分の心と測り合せるやうにして静かに昇つた。石造建築に籠つた冷気が妙に鋭く、併し澱んで液体のやうにヌルヌルと手頸に滑り顔になだれるやうであつた。先生は五六段もして立止り上を窺つてみたが、なんだか恐い気持がしたので、今度は振向いてヂッと佇んだ。耳のところに数字みたいのものが鳴り響いてゐるのである。併し全てが闇と同じくらゐヒッソリすると、先生はその場所へ今度は腰を下した。上から落ちる光は少し
すると一人の酔漢が、ヨロヨロして左から右へ通つて行つた。まづその影法師が蹌踉として左から右へ延びて行くと、やがてヨロヨロした本人が三歩くらゐで矩形の中を通り過ぎて行つたのである。すると今度は右の方のかなり離れた光から来るらしい朦朧として細長い影法師が、路面の遠くをサッと一廻りして消えてしまつた。
酔漢の跫音が
するとだしぬけに時計の音が――それは確かに時計の音だと先生は斯う決めたが、下の何処やらで、尤も上の何処やらかも知れなかつたが、ボンとただ一つだけ鈍く鳴つた。一時か?――恐らく時計の一時であらう。アッケないほど一つだけ鳴つて、それきり鳴り止んでシンとしてゐたので、ハッとして思はず
併し斑猫先生はそんなにいい気にをさまつてゐられなかつた。今度はかなり近い所に、たしかに人の呻くやうな低い声が聞えてきたのだ。低く幽かであるけれど、これはかなり長く続いた。聞きやうに由つては建物の何処からともとれるやうな、変に平べつたい充満した声であつた。
「…………」
意味がハッキリ聞きとれないのだ。聞きとれぬうちに又消えて、又沈黙がきた。先生は身体全体が冷えてきて、タラタラと無気味なものが
「――お母さん、お母さアん……」
ナ、なあんだい。チッポケな子供の声ぢやないか。してみると、大方こいつは夫婦者アパアトかも知れやしないと先生は判断した。そして、知らないうちに堅く
半町もしてホッとした。電車通りへ出て、自動車を拾ふことが出来たのである。
銀座裏のアパアトへ帰つてくると、成程、今迄は気付かなかつたが、其処にも階段があつて二階の光が矢張りボンヤリ上の方だけ浮かせてゐるのだ。平気な顔をして二階へ昇つてしまつた。
部屋へ戻つて確かに一層ホッとすることが出来た。まだ幾分混乱が鎮まらなくて忌々しいので、早速ねちまはうと先生は決定した。そして直ぐピヂャマに着代へてベッドへもぐらうとしたら、そしたら――
そこに変な奴がねてゐるのだ。
平べつたくて有るか無いか分らないほど痩ポチなのでそれまでは分らなかつたのだ。
「起きたまへ、君は……」
「…………」
先生は泣きたくなつて、いきなりグイと手を差込んでそいつの骨ばつた肩を押へ、頸筋へ手を廻して引ずり起さうとしたら、全く棒を掴むやうにアッケなく細々と痩せた頸で、それが又死んだやうに冷たかつた。先生はドキンとして、併しもはや詮方なく怖々とそいつの顔を捻ぢ向けてみると、グッタリと眼を閉ぢて、土色の死色をして冷たくなつてゐるのは、ああ、さう、自分――さう、確かに斑猫蕪作先生自身であつた。
先生は今度こそ本当に逃げようとしたが、打ちのめされたやうに、もう足が動かなかつた。
「助けて……」
尤も声も出やしなかつた。暫くしてから、腹部に針金のやうに張つてゐた棒みたいのものが漸く少し弛んできたので、引きずるやうな足を曳いて逃げようと焦つてみた。どうにでもして逃げ出したいと焦つたけれど、さういふギゴチない身体のもどかしさと同時に、もうどうすることも出来ないのだといふ絶望が火の玉のやうに胸に籠つて、やがてそのへんの肉が粉のやうに砕けてゆくのが分つた。先生は絶望のしるしに手で頭を抱へようとしたが、うまく頭を押へることが出来ずに、手は大きな波のうねりとなつて頭の前後左右へグラグラとだらしなく舞ひめぐり、しつかと押へることが出来ないのであつた。
もう逃げられないのだし、逃げたつてどうにもならないのだと分ると、先生は子供のやうに顔中を泪で汚してしまつて、フラフラと歩いて行つてベッドの上へ重つて倒れてしまつた。そして痩せこけた冷い奴の肩をつかんでそいつの胸へ顔を当て、本当にウォン/\泣きじやくつてしまつて、
「お母さん、お母さあん、お母さんてば……」
それだけがボキャブラリイであるやうに、一生懸命にさう言つて泣き喚かずにはゐられなかつた。その喚きを何べんも何べんも繰返してゐるうちに、熱くるしい泪の奥へ声も身体も意識もだんだん縮んで細くなり、消えていつてしまふのが感じられた。
翌日、重い頭を抱へて目を覚した斑猫先生は、何よりも先づ爽やかな雑沓へ慌しく飛び出して、明るい蒼空を時々見ながら、昨夜のことは、あれはみんな夢であるといふ風にしか思ひ出すことが出来なかつた。